第七十三話:歪んだ包囲網
「企画調整課長。次の定例会で、県との協議に関する不自然な文書取り下げの経緯を問いただします」
市長室に隣接する応接室。晴斗は向かいに座る中年幹部に対し、一切の感情を排した声で告げた。
課長の手は小さく震え、額には油汗が浮かんでいた。
「き、木島議員……。私は県の指示に従っただけだ! 神崎先生の事務所から『協議案を一度引き下げろ』と言われれば、一課長に拒否権などあるわけがないだろう!」
「理由はどうあれ、あなたが公文書を改ざんし、議会への報告を怠った事実は変わりません。……これが表に出れば、あなたの停職処分は免れないでしょう」
晴斗は卓上に置いたアタッシュケースを静かに叩いた。
「助かる方法はひとつです。神崎県議の秘書から直接受け取った『指導メモ』の原本を、本日中に僕へ提出すること。それ以外にあなたの身を守る術はありません」
課長は歯を食いしばり、悔しさと恐怖が入り混じった顔で晴斗を睨みつけた。
「君は……かつて市役所で『職員の職場環境を良くしたい』と言っていた木島晴斗か……? 今の君は、職員の弱みを握って突き動かす、ただの脅迫者だ!」
晴斗の瞳は微動だにしなかった。その底には、深い闇だけが広がっていた。
「脅迫者で結構です。……午後五時までに、僕のデスクへ書類を差し出してください」
晴斗は席を立ち、凍りついた応接室をあとにした。
廊下を出ると、通りかかる職員たちが一斉に視線を逸らし、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
『木島晴斗に関わるな』
『あいつに弱みを握られたら破滅だ』
役所内で急速に広まる不気味な噂と恐怖。晴斗はそれらの視線を冷たく切り捨て、一歩ずつ前へ進んだ。
その日の夜。『青嵐の会』の事務所。
卓上に残された電話の受話器から、市民の怒声が漏れていた。
「……だから! 下請けの現場が全部止まって、来月の給料が出ないって言ってるんだよ! 木島を出せ! あの野郎が変な告発なんかするから……!」
ガチャリと受話器が置かれた。
健太は両手で顔を覆い、肩を激しく震わせていた。美咲もまた、目の下に深いクマを作り、限界を迎えた表情で立ち尽くしていた。
「木島さん……もう、やめましょう……」
健太の声は、絞り出すような悲鳴だった。
「市民の人たちが、毎日泣きながら電話してくるんです……。僕たちが守りたかった人たちが、僕たちのせいで苦しんでる……! 晴斗さんのやり方は、もうおかしいです!」
晴斗はパソコンの画面から目を離さず、淡々とキーボードを打ち続けた。
「言ったはずだ。市民の動揺に流されるなと。今引き返せば、神崎の手によってこの街は完全に食い物にされる」
「でも!」
健太がデスクを激しく叩いた。書類が舞い散る。
「今、街を壊しているのは神崎県議だけじゃない! 晴斗さん、あなたですよ! 役人の弱みを握って脅して、仲間だった若林さんや結衣ちゃんを追い出して……これが僕たちの目指した政治なんですか!?」
晴斗の手が止まった。
室内を、重く痛々しい沈黙が支配する。
晴斗はゆっくりと顔を上げた。その瞳には光が一切宿っておらず、どこまでも冷たく澄んでいた。
「健太。君が耐えられないなら、今すぐこの事務所を去って構わない」
「……え?」
「美咲さんもだ。僕のやり方に納得がいかないなら、鍵を置いて出ていってくれ。……僕は一人でも神崎を地獄へ引きずり下ろす」
健太は息を呑み、絶望に満ちた目で晴斗を見つめた。美咲の目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……木島さん。あなたは……もう、僕たちの知っている晴斗さんじゃない」
健太は震える手で胸の議員バッジならぬスタッフパスを外すと、デスクの上に静かに置いた。美咲も涙を拭いながら、自分の荷物をカバンに詰め込んだ。
「さようなら……木島さん」
二人が去り、重いドアが閉まる音だけが室内に響いた。
完全な孤立。
かつて笑顔と情熱に満ちあふれていた『青嵐の会』の事務所は、いまや灯りの消えた完全な廃墟へと成り果てていた。
晴斗は一人、静寂の中で胸の奥を抉るような激痛を覚えた。だが、その痛みを強引に麻痺させ、手に入れた幹部職員たちの内部告発データを見つめた。
(あと少しだ……。神崎の手足を一本ずつ切り落とせば……僕の負けにはならない)
同時刻。県政のドン・神崎重徳の事務所。
秘書が報告を終え、神崎の顔色を窺っていた。
「……木島は、市役所内の幹部職員たちを片端から脅し上げ、過去の調整データを集めている模様です。庁内はパニックに陥っております」
神崎は吸いかけの煙管をくゆらせ、可笑しそうに目を細めた。
「くく……青二才め。自分の毒に呑み込まれ、仲間を捨て、いよいよ正真正銘の怪物になりつつあるな」
神崎の細い目が、冷酷な暗黒の光を放った。
「自分で自分の退路を断ったか。……良かろう。孤独な怪物には、それにふさわしい最期を用意してやらねばな。メディアと県警の手回しを進めろ。木島晴斗を『職員への強要・権力乱用』で社会的にも完全に抹殺する」
深淵の底で、晴斗を包み込む完全なる罠が静かに、そして確実に完成しつつあった。




