第七十二話:冷たい孤島
新図書館の建設保留、県警警察署の移転白紙化――。
神崎が放った「行政手続きの精査」という名の見えない刃は、数日のうちに葉山市の機能を確実に削ぎ取っていった。
役所の廊下をすれ違う職員たちの視線には、かつての尊敬や親しみなど一切なかった。あるのは「市を混乱に陥れた厄介者」を見る、遠巻きな恐怖と警戒だった。
午後三時。市役所の地下にある資料室の影。
晴斗は、以前から神崎派の市幹部とパイプを持つ財政課の担当課長と向き合っていた。課長は血の気の失せた顔で、周囲を気にしながら晴斗を睨みつけた。
「……木島議員、私をこんなところに呼び出してどういうつもりだ」
晴斗は手にしていた薄いファイルを開き、課長に突きつけた。
「三年前の東部再開発事業における、用地買収費の事前調整データです。神崎県議の秘書から『特定の地権者へ上乗せして支払え』と指示を受けた際、あなたが作成した内部メモのコピーです」
課長の顔が引きつり、額から嫌な汗が吹き出した。
「な、なぜそれを……! それはもう処分されたはずだ!」
「正攻法の議会調査では出てこない資料ですが、探し出せば残っているものです」
晴斗の声には、起伏がまったくなかった。冷たく凝固した氷のような響きだった。
「神崎先生の指示に従って県の事業を止め、葉山市を干上がらせる手助けをするなら……まず、あなた個人を不当な公金流出の不当介入者として実名で公表します」
「き、君は正義の改革派議員じゃなかったのか!? 職員を脅迫して何になる!」
「神崎の手先となり、街を殺す側に回るなら容赦はしません」
晴斗はファイルを閉じ、鞄に収めた。
「県土木部や神崎事務所とのやり取りの全記録を僕に差し出してください。それが、あなたがこの市役所に残り、家族を守る唯一の道です」
課長は絶望に打ちひしがれ、膝から崩れ落ちそうになりながら、乾いた唇を震わせた。
「……悪魔だ。君は……市川以上だ……」
晴斗はその言葉に眉一つ動かさず、背を向けて去っていった。
夕刻。『青嵐の会』の事務所。
鳴り止まない電話の音だけが、室内の重苦しい沈黙を切り裂いていた。
健太は受情器を握りしめたまま、困惑と怯えの混ざった目で晴斗を見つめていた。
「木島さん……また市民の方からです。『新図書館の工事が止まって、下請けの会社が不渡りを出しそうだ』って……」
美咲もパソコンの手を止め、痛々しい表情で晴斗に言った。
「木島さん、新聞の投書欄にも批判が載り始めています……。『青嵐の会の過激な告発のせいで街が害されている』って……本当に、このまま追及を続けて大丈夫なんですか?」
二人からの視線を受け止めながら、晴斗は淡々とデスクの書類を整理した。
「苦情の電話はすべて『手続きの正当性を県と調整中だ』とマニュアル通りに答えてくれればいい。市民の動揺に惑わされる必要はない」
「木島さん!」
健太が思わず声を荒らげた。
「そんな言い方……冷たすぎます! 僕たちは市民の生活を守るために戦ってきたんじゃないんですか!? 今の木島さんは……僕たちの知っている木島さんじゃないです!」
晴斗はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には光が宿っておらず、どこまでも深い深淵の闇が広がっていた。
「目の前の感情に流されて引き返せば、神崎はこの街を永遠に支配し続ける。……僕の手がどれだけ汚れようと、市民に恨まれようと関係ない。勝つことがすべてだ」
健太は絶句し、それ以上言葉を絞り出すことができなかった。美咲も唇を噛み締め、俯いた。
かつて笑い声の絶えなかった『青嵐の会』の事務所は、いまや誰ひとりとして晴斗の心に踏み込むことのできない、冷たい孤島と化していた。
晴斗は一人、暗くなりゆく窓の外を見つめた。
(僕が怪物になればいい……神崎を地獄へ連れて行く怪物に)
胸の奥で燻る強い痛みを完全に麻痺させ、晴斗はさらに暗い闇の奥へと足を進めていった。




