第七十一話:波紋の代償
「……選択肢は二つだ、木島」
神崎は煙管の煙を冷たく吐き出し、膝の上の手に視線を落とした。
「私に頭を下げ、市川の残した泥を大人しく片付けて去るか。それとも、お前のその矮小な自尊心のために、この街ごと干上がるかだ」
床の間の静寂の中、雨音だけが重苦しく響いていた。
晴斗は深く息を吐き出すと、机に両手を押し当ててゆっくりと立ち上がった。神崎の見下ろすような視線を真っ直ぐに見返し、硬く澄んだ声で告げた。
「市民を人質に取るような権力者に、頭を下げるつもりはありません。あなたが街を殺そうとするなら……僕はその手首を根元から切り落とします」
神崎の細い目がわずかに細められた。激昂も嘲笑もなく、ただ冷徹な闇のような光が宿っていた。
「……青二才が。自分が吐いた毒で溺れるがいい」
料亭の木造扉を閉め、雨の降りしきる石畳へ出た瞬間、晴斗の膝が不自然に震えた。
神崎重徳という男の圧力は、市川のそれとは根底から異なっていた。議会での数や怒号ではない。行政の制度、予算、権限という見えない刃で、街の血管を静かに締め上げていく圧倒的な暴力。
「……引き返せない」
晴斗は濡れた顔を拭いもせず、暗闇の街へと歩き出した。
翌朝、葉山市役所。
午前九時を回る頃には、庁内全体に不気味な動揺が広がっていた。
「都市建設部から緊急の連絡だ! 県の補助事業になっている新図書館の建設予算、精査が必要とかで執行保留になったぞ!」
「それだけじゃない、県警の管轄警察署の移転計画も白紙撤回だそうだ!」
廊下を走る職員たちの顔から血の気が引いていた。企画調整課や財政課の電話は鳴りっぱなしになり、市幹部たちが青ざめた顔で次々と市長室へ吸い込まれていく。
同じ刻。市役所一階の市民ホール。
「どういうことなんだ、木島議員!」
晴斗が庁舎に入った瞬間、待ち構えていた地元建設業者の代表たちが詰め寄ってきた。
「県の事業が止まったせいで、うちの下請けに入るはずだった仕事が全部保留になった! 県庁の担当者に聞いたら『葉山市の政治的混乱による手続きの遅延』だって言われたぞ!」
「木島さん、あんたが清風会や県議会を突っついたせいで、俺たちが干されることになったんじゃないのか!?」
怒号と悲痛な叫びが晴斗に浴びせられる。
「現在、事実関係を確認しています。行政手続きの不当な停滞に対しては……」
「そんな綺麗な説明はどうでもいいんだよ!」
業者のひとりが晴斗の胸元を突き飛ばすように叫んだ。
「俺たちが食えなくなったら、あんたが責任を取ってくれるのか! 市民のために闘ってるんじゃないのかよ!」
集まってきた他の市民や職員たちの視線が、刃のように晴斗の背中に刺さる。
神崎の言った通りだった。
市民を守るためにかざした正義の手が、結果として市民の首を絞め、その怨嗟の声が「木島晴斗」という男へ向けられていく。
誰もいなくなった暗い事務所。
晴斗はひとり、デスクに両肘をついて静かに目を閉じていた。
電話のベルが鳴り響く。市民からの苦情、記者からの取材、議員たちからの詰問。すべてを無視し、晴斗は闇の中で拳を強く握り締めた。
(相手が行政の権限で攻めてくるなら……)
晴斗の瞳が開いた。そこに宿っていたのは、かつて市役所で市民の笑顔のために奔走していた少年の面影ではなかった。光を一切反射しない、冷酷な深淵の色彩。
(行政の内部から、神崎に繋がる役人たちを一人ずつ潰す)
神崎の手先となり、裏で甘い汁を吸いながら不当な調整に手を貸してきた県や市の幹部たち。彼らの家族、保身、弱みを握り、吐き出させる。
「正攻法では届かないなら……僕が完全な毒になる」
静まり返った室内で、晴斗の掠れた呟きだけが冷たく響いた。




