第七十話:暗夜の対峙
午後七時四十五分。
市街地から遠く離れた山沿いに佇む老舗料亭。竹林に囲まれた静寂の中、濡れた石畳の奥にある離れへ晴斗は足を進めていた。
仲居に促され案内された個室の木造扉を開けると、そこには床の間を背にして一人静かに酒杯を傾ける老人の姿があった。
神崎重徳。
県政のドンとして三十年以上にわたり権力の頂点に君臨し続ける男だった。
「座れ」
神崎は視線すら向けずに短く言った。掠れた低い声が部屋の空気全体を押し潰すように響く。
晴斗は無言で対面の座布団へ腰を下ろした。漆塗りのテーブルを挟んで向かい合う二人の間に息の詰まるような緊張感が漂う。
神崎は杯を置くと、ゆっくりと顔を上げた。細く落ち窪んだ瞳の奥に底知れぬ暗黒の光が宿っていた。
「市川の首を切り落としたかと思えば……次は私の足元に泥を撒き散らしているそうだな」
晴斗は背筋を伸ばし、逸らすことなく神崎の視線を受け止めた。
「行政の内部に隠された不当な事前調整と裏金の存在を正すためです。神崎先生、あなたの指示で行われていた再開発事業の真相は、すでに露呈し始めています」
神崎は顔色ひとつ変えず、微かに口角を上げた。それは嘲笑だった。
「正す、か。……浅野から貰った古い紙切れを切り貼りして、県土木部とゼネコンの間に匿名の手紙を投げ込んだ程度で何を気取っている。市川から学んだ暗闘術の真似事のつもりか?」
「手繰り寄せた糸はすでに本物に繋がっています。あなたと繋がる利権の構造は、疑心暗鬼に耐え切れず内側から崩壊を始めています」
「青二才が」
神崎の低い一言が部屋の温度を一段と下げた。
神崎は煙管を取り出し、静かに火をつけた。紫煙がゆったりと立ち昇り、二人の間を隔てる。
「お前がやっているのは毒ごっこだ。相手に疑心暗鬼を生ませて自滅を待つ……。そんなものは市川が三十年前に使い古した小細工に過ぎん。本物の権力というものがどういうものか、お前は何も分かっておらん」
神崎は煙を深く吐き出し、冷酷な眼差しで晴斗を射抜いた。
「明日から葉山市への県の事業補助金配分が見直される。市が計画している新図書館の建設予算も、県警の管轄警察署の移転計画もすべて一時凍結だ。……理由は何だと思う?」
晴斗の眉間が引き締まった。
「『行政手続き上の精査の必要性』だ。私が指一本動かすだけで、葉山市のあらゆる行政サービスが止まる。市民が不便を囲み、事業者が悲鳴を上げる。……お前が撒いた毒のせいでな」
晴斗は拳を固く握りしめた。
「市民を人質に取るつもりですか」
「人質?」
神崎は可笑しそうに鼻で笑った。
「これが現実の権力だと言っているのだ。綺麗な正義を振りかざして私に挑んだ結果、お前が愛する街が内側から干上がっていく。市民は私を責めはしない。『余計な波風を立てた木島晴斗』を恨むのだよ」
神崎の手元で煙管の灰が静かに落ちた。
「お前は正義のヒーローのつもりかもしれないが、いま街を壊しているのはお前自身だ。……どうだ、市川の残した泥を呑んで怪物になった気分は」
冷酷な問いかけが、晴斗の胸の底にある冷えた傷口を深く抉り抜いた。




