第六十九話:崩落の足音
翌朝の県庁。
土木部次長室のドアを叩く音は、いつもよりずっと執拗で不吉に響いていた。
「次長、神崎先生の事務所から三度目の電話です! 今すぐ折り返すようにと……」
部下の声に、次長は血の気の失せた顔で首を振った。
「居ないと伝えろ! 体調が急変して病院へ向かったと……そう言え!」
デスクの引き出しには、昨日届いたあの不可解な手紙と調整メモが収められている。今朝になり、叶野建設の専務と連絡が完全に取れなくなった。噂では、昨夜遅くに専務が社内の秘密書類を持ち出し、都内の弁護士事務所へ駆け込んだという。
(あの野郎……本当に俺を売る気か!)
互いの不信感はすでに制御不能なまでに膨れ上がっていた。神崎に相談すれば、自分ごと揉み消されるかもしれないという恐怖が、次長の判断力を完全に奪っていた。
同じ刻。神崎重徳の事務所。
重厚な応接セットの前に立った秘書が、深々と頭を下げていた。
「……次長は病院に搬送されたと主張しております。叶野建設の専務も携帯の電源を切ったまま潜伏している模様です」
神崎は灰皿に煙草の火を押し擦り付け、低く鼻で笑った。
「図体ばかり大きくて、肝の小さい奴らだ。紙切れ数枚の脅しに怯えて自爆しおったか」
「先生、やはり内部からのリークでしょうか……」
「違うな」
神崎の細い目が、冷酷な光を帯びてデスクの一点を見つめた。
「市川の首を跳ねたあの若造だ。木島晴斗……。表では綺麗な改革を謳いながら、裏では市川の側近だった浅野あたりと手を組み、泥の手触りを覚えたとみえる」
神崎は立ち上がると、窓の外に広がる葉山市の街並みを見下ろした。
「相手のルールで戦うのをやめ、こちら側の暗闘に足を踏み入れてきたか。……面白い。だが、身の程を知らん青二才に、本物の毒というものを教えてやらねばならんな」
神崎は秘書に向かって静かに短く命じた。
「木島に連絡を入れろ。直接会って話をしてやる」
午後二時。『青嵐の会』の事務所。
静まり返った室内に、ドアの開く音が響いた。
入ってきたのは誠和会の谷口だった。谷口は若林や結衣の姿がない無人のデスクに一瞬視線を走らせると、一人パソコンに向かう晴斗の前へと歩み寄った。
「木島君。若林君たちと何かあったのかね」
晴斗はキーボードから手を離さず、短く答えた。
「いえ。作業を分担しているだけです」
谷口は深くため息をつき、晴斗のデスクの端に手を置いた。
「県土木部と叶野建設の周辺がひどく騒がしい。今朝から再開発事業の事前調整を巡る噂が庁内を駆け巡っている。……木島君、君が裏で動いたな?」
「この街を正すための調査です」
晴斗は顔を上げた。その瞳には感情の波一つ浮かんではいなかった。
谷口は眉間に深い刻み目を入れ、語気を強めた。
「やり方が毒々しすぎる! 疑心暗鬼を生み、相手を自滅させるやり方は、かつて市川や神崎が長年使ってきた暗闘の手法そのものだ。君は……そんな手段を使ってまで勝つことが、市民のための政治だと思っているのか!」
「綺麗な手だけで市川を倒せましたか?」
晴斗の低い問いに、谷口は言葉を詰まらせた。
「市川を倒しても、神崎が残っている。行政の奥深くに根を張る利権を絶つには、根元から毒を回すしかないんです。谷口先生、あなた方が長年手をこまねいていた間に、この街がどれだけ壊されたか……忘れたわけではないでしょう」
「木島君……!」
「口を挟まないでいただきたい。これは僕の戦いです」
晴斗の徹底した拒絶に、谷口は固く唇を噛み締めた。
「……怪物と戦う者が、自らも怪物にならぬよう気をつけろ。君のその目は、かつての市川幸太郎と同じ色をし始めているぞ」
谷口は吐き捨てるように言い残すと、背を向けて去っていった。
誰もいなくなった事務所。
夕闇が室内の光を呑み込んでいく中、晴斗のデスクの上で携帯電話が低く震えた。
画面に表示されたのは「神崎事務所」の文字。
晴斗は迷うことなく通話ボタンを押し、耳に当てた。
『木島議員ですね。神崎重徳の秘書です。……先生がお会いになりたいとのこと。今夜八時、指定の場所へお越しいただけますか』
「分かりました」
晴斗の声に、一切の躊躇はなかった。
受話を切った晴斗は、暗闇の中で静かに立ち上がった。
巨悪との直接対峙。深淵の底へと繋がる扉が、今まさに開こうとしていた。




