第六十八話:連鎖する毒
翌日の夕刻。県庁の土木部次長室。
重い革張りのソファに深く腰掛けた県土木部次長は、手元に広げられた不快な文書を震える指先で見つめていた。
『叶野建設が神崎を切り捨てて地検へ裏帳簿を持ち込もうとしている』
差出人不明の手紙。だが添えられた添付書類は、間違いなく自分と叶野建設専務との間で交わされた、再開発事業の入札事前調整のメモそのものだった。
「馬鹿な……。叶野のやつ、裏でそんな真似を……」
冷や汗が額から垂れ落ちる。神崎県議の忠実な手先として指示通りに動き、甘い汁を吸ってきたはずだった。だがもし叶野建設が保身のために地検と裏取引を始めているのだとしたら、最初に切り捨てられるのは検察にとって格好の獲物である行政側の自分だ。
次長は受領書を握り潰すと、震える手で叶野建設専務の私用携帯へ電話をかけた。
「……あ、専務か。今どこにいる」
受話器の向こうの専務の声は、不自然なほど硬く警戒に満ちていた。
『……次長ですか。何の用でしょう』
「何の用だ、じゃない! 例の再開発の件だ! お宅、まさか変なマネをしてないだろうな!?」
『変なマネ? それはこちらの台詞ですよ!』
専務の怒号が受話器を叩いた。
『県土木部が全ての罪をうちに擦り付けようとしているという噂、本当なんですか! 受領証のコピーまで回ってきているんだ! うちをトカゲの尻尾切りにするつもりなら、こちらにも考えがありますよ!』
「な……何だと!?」
互いが互いに「相手が自分を裏切ろうとしている」と確信し、怒りと恐怖を撒き散らす。電話口で罵り合う二人の頭上には、すでに晴斗の撒いた「毒」が完全に回り切っていた。
同じ刻。神崎重徳の事務所。
「……先生、どうもおかしいんです」
秘書が顔を曇らせて報告した。
「叶野建設の専務が昨夜から連絡がつきません。それに、県土木部次長も来週予定していた再開発の予算説明会を『体調不良』を理由に延期したいとのことです」
神崎は吸いかけの葉巻を灰皿に置き、不機嫌そうに眉をひそめた。
「あの二人め……急に何を怯えている。市川が落ちたことで動揺しているのか」
「それだけではない気がします。なんだか、お互いを牽制し合っているような不気味な気配が……」
神崎の細い目が鋭く光った。
「誰かが裏で仕掛けているな……」
長年、利権の構造を裏で支配してきた老政客の直感が、暗闇から伸びる見えない糸の存在を感じ取っていた。
一方。『青嵐の会』の事務所。
若林と結衣が去った室内は、まるで廃墟のような静けさに包まれていた。
残された健太と美咲は、デスクに向かったまま微動だにしない晴斗の背中を、不安そうな目で見つめていた。
「木島さん……」
美咲が意を決して声をかけた。
「若林さんも結衣ちゃんも来ないなんて、やっぱりおかしいですよ……。何かあったんですか?」
晴斗はパソコンの画面から視線を外さずに答えた。
「二人とも休んでいるだけだ。二人分の作業は僕が引き受ける。君たちは普段通りの市民対応だけをしてくれればいい」
「でも……!」
健太が立ち上がった。
「晴斗さん、最近の晴斗さん、何だか怖いです! 一人で何か抱え込んで……僕たちじゃ力になれませんか!?」
晴斗はゆっくりとキーボードを打つ手を止め、二人を冷ややかに見つめた。
「僕がやっているのは、この街の根底にある利権を潰すための作業だ。生半可な気持ちで関われば、君たちまで巻き込まれる。……口を挟まず、言われた仕事だけをしてくれ」
その淡々とした、しかし拒絶に満ちた言葉に、健太は言葉を失った。美咲も唇を噛み締め、それ以上何も言えなくなった。
二人が諦めたように事務所を後にすると、室内には再び雨音だけが残された。
晴斗はデスクの脇に置かれた結衣のUSBメモリを取り上げた。
パソコンに挿し込み、中身を開く。そこには結衣が残していった、これまでの政務活動費の精査データと、各会派の資金流出ルートの推測グラフが、完璧な精度で整理されていた。
データの末尾には、短いテキストファイルがひとつ残されていた。
『晴斗さんへ。これが私の手伝える最後です。どうか、これ以上暗い場所に行かないでください』
画面を見つめる晴斗の瞳が、かすかに揺れた。
胸の奥を鋭い刃物で刺されたような痛みが走る。彼女がどれほどの思いでこのデータを残し、そして自分のもとを去っていったのか。
だが、晴斗はゆっくりと目を閉じ、深く息を吐き出すと、その痛みを強引に胸の底へと押し込めた。
「引き返せる段階は……もう過ぎた」
晴斗はUSBメモリを握り潰すように強く握り締め、再び画面に向き直った。
神崎の手先たちが互いに疑心暗鬼に陥り、崩壊の足音が近づいている。毒を回し切った先にあるのは、さらなる破滅か、それとも虚無か。
晴斗の横顔は、暗闇の中で鬼気迫る冷徹さに彩られていた。




