第六十七話:暗闘の波紋
翌朝。
『青嵐の会』の事務所に、結衣の姿はなかった。
デスクの上には綺麗に揃えられた書類と、彼女が担当していた政務活動費の集計データが収められたUSBメモリがひとつポツンと残されていた。
「木島君……結衣ちゃん、どうしたんだ? 電話にも出ないし、熱でも出たのか?」
若林が心配そうに尋ねた。健太と美咲も不安そうな表情で晴斗を見つめている。
「木島さん、結衣ちゃん何か言っていなかった?」
美咲の問いかけに、晴斗は表情ひとつ変えずに答え、パソコンの画面へと視線を落とした。
「いえ……体調が良くないそうです。しばらく休むと言っていました」
その冷淡な態度に、若林はかすかな違和感を拭えないように眉をひそめた。
「そうか……。だが木島君、市川が失脚した今、世論の追い風はこちらにある。神崎への追及も、議会事務局を通じて正式に決算委員会での説明を求める形で……」
「正攻法では届きません」
晴斗の低く短い言葉が、若林の提案を遮った。
「神崎の手元に届く前に、行政の内部で握り潰されます。……若林さん、僕に考えがあります。しばらく神崎の件は僕に任せてください」
「木島君……?」
若林が何かを言いかけたが、晴斗は返事も待たずに上着を羽織り、アタッシュケースを手に事務所を後にした。
雨上がりの湿った風が市役所の前庭を吹き抜ける。
晴斗が向かったのは、市議会でも市役所でもなく、市民図書館の地下にある暗いコインロッカーだった。
鍵を開け、中に放り込んだアタッシュケースから、浅野から手渡された「毒の資料」を取り出す。神崎の懐刀である県土木部次長と、地元最大手ゼネコン「叶野建設」の専務との間で行われた、不正な入札事前調整の記録。
(相手のルールで戦うな。仲間に疑心暗鬼を生み出せ……)
浅野の言葉が、耳の奥で凶暴な毒虫のように蠢いていた。
晴斗は差出人不明の封筒を二通用意した。
一通には「叶野建設が神崎を切り捨てて地検へ裏帳簿を持ち込もうとしている」と匂わせるメモを添え、県土木部次長の自宅ポストへ。
もう一通には「県土木部が全ての罪を叶野建設になすりつけようとしている」と示す受領証のコピーを添え、叶野建設専務の私邸へ。
自分の手が泥で汚れていく凄惨な感触。
かつて市役所の窓口で市民の笑顔のために奔走していた自分の影が、遠い過去のように霞んでいく。
「これが……権力の暗闘か」
晴斗は震える指先で封筒の封を閉じ、ポストへと投函した。
その日の夕刻。
晴斗がひとり事務所へ戻ると、明かりの消えた室内で若林が待っていた。
「木島君。どこへ行っていた」
若林の声は重く、暗闇の中に沈んでいた。
「少し、調査です」
「嘘をつくな!」
若林が激しくデスクを叩いた。卓上の資料が散らばる。
「結衣ちゃんから連絡があったぞ! 君が昨日の夜、浅野元議員と密会していたってな! 市川の側近だった人間と裏で何を手打ちしたんだ!?」
晴斗は黙った。暗がりの中で、怒りに満ちた若林の瞳が晴斗を射抜く。
「答えろ木島君! 僕たちが闘ってきたのは、そういう卑怯な暗闘を無くすためじゃなかったのか!? 結衣ちゃんは君が変わってしまったことに耐えかねて泣いていたんだぞ!」
「勝つためです」
晴斗はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、光すら届かない冷徹な深淵が広がっていた。
「綺麗事だけで神崎を倒せると思いますか? 高橋さんや地元の事業者が干され、市民が利権の犠牲になり続けるのを、黙って見ていろと言うんですか? 僕は……どんな泥を呑んででも、神崎を地獄へ引きずり下ろします」
「木島君……君は……」
若林は言葉を失い、一歩後退りした。
目の前に立っている男は、共に志を立てた木島晴斗ではなく、権力の毒に呑み込まれた恐ろしい何かに見えた。
「君がそんな怪物になるなら……僕はもう、君と一緒に戦えない」
若林は吐き捨てるように言い残すと、激しくドアを閉めて去っていった。
誰もいなくなった暗い事務所。
雨の音が再び窓を打ち叩き始める。
晴斗は一人、デスクにぽつんと置かれた結衣のUSBメモリを握りしめた。手の中に残る冷たい金属の感触だけが、彼が歩み始めた暗黒の道の深さを物語っていた。




