第六十六話:闇の中の密約
午後九時五十分。
港沿いに広がる廃倉庫街は、冷たい潮風と激しい雨の音に包まれていた。街灯の光も届かない暗がりの中、晴斗の乗った軽自動車が静かに停車した。
晴斗は助手席に置いたカバンを握りしめ、濡れたアスファルトを踏みしめて指定された「三号倉庫」へと向かった。
錆びついたトタンの引き戸を押し開けると、カビと重油の匂いが鼻を突いた。奥の薄暗い作業用ライトの下に、ビニールシートの上に座り込む一人の男の姿があった。清風会の前幹事長・浅野だった。
数日前までの議員としての威厳は完全に剥げ落ち、無精髭を伸ばし、疲れ切った眼光で晴斗を睨みつけた。
「本当に一人できたか……。度胸だけはあるな、木島」
「浅野さん。神崎県議を倒すための『泥』とは何ですか」
晴斗は迷うことなく本題を切り出した。浅野は煙草の煙を深く吐き出し、足元に置かれた古い革製のセカンドバッグを足で蹴り出した。
「神崎が主導した『葉山駅東口再開発事業』。その下請け企業の選定プロセスと、神崎の政治団体へ流れた裏金の明細だ。市川先生を通じて、私が直接現金の運搬と記録を担当させられていた」
晴斗がセカンドバッグを拾い上げ、中のファイルを確かめる。そこには具体的な企業名、日付、そして神崎の秘書のサインが入った受領証のコピーが整然と並んでいた。
「これがあれば……神崎を検察に差し出せる」
「甘いな」
浅野が冷たく吐き捨てた。
「神崎はその程度の紙切れ一枚で落ちる男じゃない。地検のトップとも、県警の幹部とも繋がっている。もしお前がこれを表でぶちまければ、公表する前に捜査は揉み消され、お前と青嵐の会は理由のわからない『事故』か『スキャンダル』で社会的にも肉体的にも消されるぞ」
浅野は立ち上がり、晴斗の胸ぐらを掴みかけるように顔を近づけた。その目には深い絶望と怨念が宿っていた。
「神崎を落としたければ、正攻法の会見や質問など使うな。神崎の懐刀である県土木部の幹部と、神崎を支援する地元ゼネコンの『相撃ち』を狙え。やつらが仲間割れを起こすように、この資料を影で流して疑心暗鬼を生み出せ。裏から毒を回すんだ」
晴斗は浅野の言葉を静かに受け止めた。
「裏から……毒を回す」
「そうだ。相手のルールで戦うな。権力の暗闘に足を踏み入れるということはそういうことだ」
浅野は晴斗の手から離れ、自嘲気味に笑った。
「かつて『クリーンな改革』を謳って当選した青二才が、まさか私と同じ泥の道を歩むとはな……。市川先生もあの世(地獄)で喜んでいるだろうよ」
晴斗は返意を示さず、セカンドバッグを硬い手つきで抱え直した。
「ありがとうございます、浅野さん」
「礼などいらん。……神崎を地獄へ引きずり降ろせ。それだけだ」
深夜十二時。晴斗が事務所へ戻ると、明かりが点いていた。
ドアを開けると、デスクの前で結衣が一人で待っていた。その目の下には深いクマが刻まれ、晴斗の抱えるセカンドバッグへ視線を向けた。
「晴斗……それ、何?」
結衣の声は震えていた。
「結衣、なぜまだ残っているんだ」
「待っていたのよ! 晴斗が、私に隠れて何をしようとしているのか……確かめるために!」
結衣は立ち上がり、晴斗に詰め寄った。
「さっきの電話……浅野元議員でしょう? 市川議員の側近だった人と、なんで裏で会うの? 私たちがこれまで闘ってきたのは、そういう密室政治をなくすためじゃなかったの!?」
「結衣、相手は神崎だ」
晴斗の声は氷のように冷たかった。
「表の綺麗な手続きだけでは、神崎の手からこの街を取り戻すことはできない。どれだけ叩かれても、どれだけ泥を呑んでも、僕たちが勝たなければ意味がないんだ」
「そんなの……言い訳よ!」
結衣の瞳から涙が溢れ出た。
「目的のためなら手段を選ばないなんて、それじゃあ……晴斗自身が市川議員や神崎議員と同じになっちゃうじゃない! 私は……そんな晴斗を見たくない!」
結衣はカバンを掴むと、晴斗の横を吹き抜けるように飛び出していった。
雨の音が虚しく事務所内に響く。
晴斗は去っていく結衣の背中を追わなかった。ただ静かにデスクへ向かい、浅野から渡された「毒の資料」を暗闇の中で見つめ続けた。
仲間との絆に走った深い亀裂。
理想の旗を掲げていたはずの青年は、権力の深淵へと、確実な一歩を踏み出していた。




