第六十五話:深淵への一歩
市川幸太郎の辞職勧告が決議され、地検の本格的な捜査が市役所を揺らした週の金曜日。
『青嵐の会』の事務所には、地元の支持者や市民団体からの祝いの生花や差し入れが所狭しと並べられていた。
「晴斗さん! 全国紙の社説でも『地方議会の自浄作用が生んだ快挙』って特集されていますよ!」
健太が誇らしげに新聞の切り抜きを壁に貼り出している。美咲も笑顔で問い合わせの電話に応対し、若林は感慨深そうに缶コーヒーをあおっていた。
「晴斗、ひとまず第一幕は完勝だな」
若林が晴斗の肩をポンと叩く。
「ああ……」
晴斗は短く答えただけだった。デスクの上のパソコン画面には、県政の重鎮・神崎重徳県議の過去の政治資金収支報告書と、県発注の再開発事業における入札結果一覧が整然と並んでいた。
その冷淡な横顔に、結衣は一瞬言葉を詰まらせた。
「……晴斗さん、少し休んだ方がいいんじゃない? ここ数日、まともに寝ていないでしょう」
「大丈夫だ。結衣、次の定例会に向けた政務活動費の精査資料だが、清風会の残党議員たちの支出分を重点的に再集計してほしい」
「え……? でも市川議員は辞職したし、清風会も無所属に分裂して形骸化しつつあるわ。これ以上の追及は……」
「市川ひとりで終わらせたら意味がないと言ったはずだ」
晴斗の声には、普段の温かみのある響きが一切なかった。
「彼らがどこへ流れ、誰の指示で動いているのか。金の根っこを叩かなければ、また同じことが繰り返される」
結衣は晴斗の鋭い眼光に圧され、それ以上何も言えずに頷くしかなかった。若林も微かに眉をひそめ、不穏な気配を察するように晴斗の背中を見つめた。
午後八時。事務所の片付けが終わり、仲間たちが帰路についた後。
晴斗はひとり事務所に残り、デスクの引き出しの奥から一枚のメモ用紙を取り出した。昨夜、佐伯から手渡された連絡先だった。
『神崎に切られた男・清風会前幹事長、浅野』
浅野は長年市川の忠実な側近として動きながら、神崎県議との太いパイプを維持してきた男だった。だが今回の裏金発覚の際、市川からも神崎からもトカゲの尻尾切りとして全ての責任を押し付けられ、議員辞職へと追い込まれていた。
晴斗は非通知設定で電話をかけた。
三回のコール音ののち、疲弊しきった低い声が応答した。
「……誰だ」
「木島晴斗です」
受話器の向こうで息をのむ気配がした。
「……何の用だ。私を嘲笑いにでもきたのか。市川先生を潰し、私を辞職に追い込んで満足しただろう」
「浅野さん、あなたを笑いに電話したわけではありません」
晴斗は静かに、しかし冷酷な確信を込めて告げた。
「あなたを使い捨てにした神崎重徳に、報復したくはありませんか」
沈黙が流れた。雨音だけが受話器の隙間を埋めていく。
「……正義の味方が、汚職議員の私と手を組むというのか? 呆れたな。青嵐の会が聞いたら泣くぞ」
「正義で街は変わりません。必要なのは……権力を引きずり下ろすための毒です」
晴斗の口から漏れた言葉に、浅野は掠れた声で笑い出した。
「くくっ……なるほど。市川先生が言っていた通りだ。『木島は怪物になる』とな……。いいだろう、今夜十時、港の古い倉庫街に来い。神崎が隠している『一番深い泥』を渡してやる」
通話を切った晴斗は、携帯電話を握りしめたまま深く息を吐いた。
ふと振り返ると、事務所の入り口の影に結衣が立っていた。忘れ物を取りに戻ってきたようだった。
「……晴斗?」
結衣の瞳に、困惑と底知れぬ恐怖が浮かんでいた。
「誰と……何を話していたの?」
夜の静寂の中に、二人の間に生まれた小さな亀裂の音が、静かに響き渡った。




