第六十四話:深淵の決別
午後二時。市議会本会議場。
地検特捜部の捜索が入った翌日、緊急開会された臨時本会議の空気は凍りつくような緊張感に包まれていた。
議場最背後の指定席。そこに市川幸太郎の姿はなかった。四十年間にわたりこの議場を恐怖と数の力で支配し続けた男の空席が、時代の終わりを無言で告げていた。
「これより、市川幸太郎議員に対する辞職勧告決議案の採決を行います」
議長の発言とともに全議員が背筋を伸ばす。
「起立多数……よって本案は可決されました」
清風会の若手議員たちを含め、実に八割以上の議員が静かに起立した。かつて市川の顔色ひとつに怯えていた者たちが、自らの保身のためにあっさりと主君を見捨てた瞬間だった。
傍聴席からの拍手や歓声はなかった。ただ、一筋の冷たい風が議場を通り抜けていくだけだった。
「これで……市川は終わったんだな」
本会議場の廊下で、若林が乾いた声で呟いた。
「ああ。地検の本格取り調べも始まった。政治生命どころか、実刑は免れないだろう」
吉岡が胸を撫で下ろすように息を吐く。だが、晴斗の表情は少しも晴れていなかった。
同刻。市役所裏の勝手口。
押しかけた三十人以上の報道陣と押し合いになりながら、黒塗りの高級セダンに乗り込もうとする老人がいた。市川幸太郎だった。
「市川先生! 辞職勧告が決議されましたがどう受け止めますか!」
「神崎県議への資金流出についてお聞かせください!」
マスコミの怒号とフラッシュの閃光の中、市川は無言で車内に足を入れようとした。その時、遠くからその姿を見つめていた晴斗と目が合った。
市川はゆっくりと足を止め、晴斗に向かって歪んだ笑みを浮かべた。
「木島晴斗……」
市川の掠れた声が、喧騒を突いて晴斗の耳に届く。
「勝ったつもりでいるな。私を切り捨てた神崎先生が、次にお前たちをどう料理するか……特等席で見物させてもらうぞ」
市川はセダンのドアを閉め、闇の中に消えていった。
巨大な怪物の失脚。それによって得られたはずの「勝利」は、神崎重徳というさらなる巨悪の影によって一瞬にして塗りつぶされていた。
その夜。『青嵐の会』の事務所。
「晴斗さん、地元紙も全国紙もトップニュースですよ! 『若手会派の告発が巨悪を討つ』って!」
健太が興奮気味に新聞の一面を広げた。美咲と結衣も安堵の笑みを浮かべている。
しかし、晴斗はデスクの上の資料を見つめたまま、微動だにしなかった。
「……晴斗さん?」
結衣が心配そうに覗き込む。
「市川ひとりを葬っても、この街の根底にある利権構造は一ミリも動いていない」
晴斗は静かに言った。
「市川が残した裏金口座のデータ、そして神崎県議へと繋がる資金還流ルートの端緒。これらを完全に解明し、表に引きずり出さなければ……第2、第3の市川が生まれるだけだ」
「でも晴斗……相手は県政のドンだぞ?」
若林が真剣な面持ちで身を乗り出した。
「神崎は市議会の外にいる。県政の予算権限やゼネコンとの太いパイプを握っている男だ。僕たちの手札だけじゃ、届かない場所にいる」
「なら……届く手札を作るしかない」
晴斗の声に、これまでになく深く冷たい色彩が混ざっていた。
深夜。晴斗はひとり、佐伯のバーを訪れた。
カウンター越しにグラスを磨く佐伯は、晴斗の顔を見ると小さく鼻で笑った。
「市川を討ち取った英雄が、随分と凄惨な顔をしているな」
「佐伯さん……神崎重徳を潰す方法を教えてください」
直球の問いに、佐伯の手が止まった。佐伯はタバコに火をつけ、紫煙の向こうから晴斗をじっと見つめた。
「神崎は市川のような粗暴な怪物じゃない。行政の制度の隙間を熟知し、他人に泥を塗らせて自分は一切の手を汚さない蜘蛛のような男だ」
「どんな手を使っても構いません」
晴斗の言葉に、佐伯の目が鋭く光った。
「どんな手でも、だと? ……晴斗、お前は神崎を落とすために、市川の残した汚い遺産(毒)を使う覚悟があるのか? 仲間を裏切り、泥を呑み、自らも暗闇に足を踏み入れる覚悟が」
「……あります」
晴斗は迷うことなく答えた。
佐伯は静かにグラスを置いた。
「いいだろう。なら教えてやる。神崎の支配を崩す鍵は、清風会の残党と……神崎に切られかけた『あの男』との密約だ」
市民の拍手と歓声の裏側で、木島晴斗は自らの純粋な理想を捨て、権力の深淵へと引き返せない一歩を踏み出そうとしていた。
第五部、了。




