第六十三話:包囲網の軋み
正午すぎ。市役所本館の正面玄関は地検特捜部と県警捜査二課の捜査員が姿を見せたことで騒然となった。
「特捜部が入ったぞ!」
「清風会の事務所捜索か!?」
フラッシュの嵐の中を黒いスーツの男たちが無言で通過していく。その光景はテレビのニュース速報を通じて全国へと配信され、葉山市役所の権威は完全に失墜した。
同じ刻。市議会会派『青嵐の会』の事務所。
「晴斗さん、市議会の議友会や無所属議員から次々と連絡が入っています!」
結衣が受話器を置きながら興奮した面持ちで報告した。
「市川議員に対する辞職勧告決議案の臨時本会議での緊急上程について、過半数の議員が賛同の意を示しているわ。清風会の中からも『市川先生と一緒に沈むわけにはいかない』と離脱を模索する若手が現れ始めています」
「清風会の瓦解か……」
若林が感慨深そうに呟いた。長年この街を絶対的な恐怖で支配してきた市川の王国が、足元から音を立てて崩れ落ちようとしていた。
「これで……本当に終わるんですよね?」
健太が祈るような目で見つめた。しかし晴斗の瞳はどこまでも冷たく沈んでいた。
「甘いよ健太」
晴斗はデスクの上に置かれた県政ニュースの紙面を指差した。そこには県知事と並んで笑みを浮かべる一人の老人の姿があった。
「市川という男が四十年間この街で好き勝手をできたのは、市役所や市議会だけを抑えていたからじゃない。県政の巨頭であり、葉山市の再開発利権の蛇口を握る『県政のドン』・神崎の庇護があったからだ」
「神崎……」
結衣の息が止まった。県議会で三十年にわたり君臨し、知事すら顎で使うと言われる絶対権力者・神崎重徳。市川にとって最大のパトロンであり育ての親だった。
その時、事務所のドアが静かに開いた。
入ってきたのは誠和会の代表・谷口だった。その表情にはいつもの重厚さに加え、かつてない色濃い懸念が刻まれていた。
「木島君、少し二人で話せるか」
晴斗は頷き、谷口とともに静かな会議室へと移動した。
「会見は見事だった」
谷口はドアを閉めると静かに切り出した。
「市川の裏金受領簿を暴き地検を動かした。議員としての手腕も執念も文句のつけようがない。……だがな木島君。怪物の首を跳ねた後には、その背後に潜むさらに巨大な怪物が目を覚ます」
「神崎県議ですね」
谷口は重く頷いた。
「さっき市長室の近くを通ったら市長が青ざめた顔で電話にしがみついていた。相手は神崎だ。神崎は市川の失脚そのものは見捨てる気だろう。だが……あの男が恐れているのは市川の口座からさらに上、県政や大手ゼネコンへと還流していた『本当の金脈』に捜査の手が及ぶことだ」
谷口は晴斗の目を真っ直ぐに見つめた。
「神崎はすでに動き始めている。市川を単なる『個人の汚職』として切り捨て、青嵐の会がこれ以上深追いできないよう、行政や議会のあらゆるルートを使って力づくで蓋をしにくるぞ」
「覚悟の上です」
晴斗は揺るぎない声で答えた。
「市川ひとりをトカゲの尻尾切りで終わらせたら、この街の構造は何も変わりません。根っこから腐りを引き抜かなければ意味がないんです」
谷口は小さく息を吐き、どこか寂しげな苦笑を浮かべた。
「君のその澄んだ瞳が眩しくもあり……同時に恐ろしくもあるよ。……いいか、市川を追い詰める臨時本会議の辞職勧告決議案、誠和会は全会一致で賛成に回る。だが、その先にある暗闇は……今までとは比べものにならない毒が渦巻いているぞ」
谷口が去った後、晴斗の携帯電話が低く震えた。
表示された番号は登録されていない非通知のものだった。
晴斗は画面を凝視した後、意を決して通話ボタンを押した。
「……木島です」
「……威勢がいいな、青二才」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、耳を刺すような低く掠れた老人の声だった。
周囲の雑音は一切なく、まるで冷たい墓場の中から語りかけてくるかのような圧倒的な威圧感が鼓膜を揺さぶる。
「市川の小僧を踊らせて満足したか。だがな……この街のルールを決めているのは市議会でも地検でもない。私だ」
神崎重徳の声だった。
「お前がどこまで泥を呑む覚悟があるのか……じっくりと見せてもらうぞ」
一方的なツートンという切断音が静かな会議室に空虚に響いた。
窓の外では、朝方の晴れ間が嘘のようにどす黒い暗雲が空を覆い始めていた。
市川幸太郎という巨大な壁を打ち崩した直後、晴斗たちの前に現れたのは、この街全体を底から呑み込む真の深淵だった。




