第六十二話:崩壊の序曲
午前八時五十分。
記者会見の終了と同時に記者クラブのドアが弾け飛ぶように開き、カメラマンと記者が市役所三階の廊下へと崩れ出た。
「市川幸太郎議員に直撃だ!」
「清風会の控室へ向かえ!」
足音が廊下に鳴り響き凄まじい大群となって清風会控室へと押し寄せていく。かつてない怒号と熱気が庁舎の静寂を完膚なきまでに叩き潰していた。
同時刻。市役所四階の監査委員事務局。
「どういうことだ……! 青嵐の会ではなく清風会の裏金だと!?」
特別監査に向かう準備を整えていた監査委員長はテレビ画面のテロップを見つめたまま絶句していた。画面には佐藤一郎の受領印が押された鮮明な裏金受領簿と市川の筆頭秘書の名前がデカデカと映し出されていた。
「委員長! 下の階の青嵐の会事務所前に押し寄せていた街頭デモ隊が……市民同士の揉み合いになって混乱しています!」
職員が息を切らして飛び込んできた。
「『市川の裏金を追及しろ!』とデモ隊に反対する市民が集まり始め収拾がつきません! 九時からの青嵐の会への特別監査はどうしますか!?」
「あ、アホか! 今そんなものを強行してみろ! 市民やマスコミに『監査委員も市川の犬か』と叩かれて俺たちの首が飛ぶぞ!」
監査委員長は額の汗を拭いながらガタガタと震える手で資料をデスクに投げ捨てた。
行政の権威を後ろ盾にした市川の密室の罠は、会見というたった三十分の陽光に晒されただけで完全に機能を停止した。
午前九時ちょうど。
青嵐の会の事務所前。
集まっていた三十人以上の報道陣は一斉に清風会の控室へと雪崩込んでおり、静まり返った勝手口から晴斗と結衣、若林の三人が戻ってきた。
事務所の中では健太と美咲がテレビの生放送画面を抱きしめるように見つめていた。
「晴斗さん……! やった……やったよ!」
健太が涙を流しながら叫んだ。
「テレビだけじゃない! ネットでも『青嵐の会は冤罪だった』『市川幸太郎は辞職しろ』ってハッシュタグがトレンドの一位になっている!」
結衣はデスクにへたり込み激しく波打つ胸を押さえた。
「よかった……。本当に……よかった……」
極限の緊張から解放された結衣の瞳から大粒の涙が溢れ落ちデスクに落ちた。徹夜の解析と命がけの追跡が実を結んだ瞬間だった。
だが晴斗の表情に歓喜の色はなかった。晴斗は静かに窓の外、市役所の本館を見上げた。
「まだ終わっていない」
晴斗の言葉に若林がハッと顔を上げた。
「晴斗……市川の裏金を暴露したんだぞ? 奴の政治生命はこれで終わりだろ」
「市川幸太郎という男は、これだけのスキャンダルを踏みみつぶして四十年生き残ってきた化物だ」
晴斗は冷たく澄んだ声で告げた。
「検察が動くか市議会で辞職勧告決議案が可決されるまで奴は絶対に首を縦に振らない。それどころか……追い詰められた猛獣は全毒を撒き散らして僕たちを道連れにしにくる」
午前十時。清風会控室。
重い木製のドアの外には四十人を超す報道陣が群がりドアを激しく叩いていた。
「市川先生! 会見で公表された裏金受領簿は本物ですか!」
「佐藤一郎氏との関係を説明してください!」
室内は死のような静寂に包まれていた。
控室のソファには青ざめた清風会の幹部議員たちが言葉を失って座り込んでいた。市川幸太郎は窓際に立ち火の消えた煙草を指に挟んだまま動かない。
「先生……」
筆頭秘書が震える声で呼びかけた。
「地検特捜部と県警捜査二課から……事情聴取の打診が入りました。これ以上の引き延ばしは不可能です。……どうなさるおつもりですか」
市川はゆっくりと振り返った。
その顔には絶望も焦燥も存在しなかった。ただ底知れぬ暗黒の怒りと冷酷な狂気がその瞳の奥で禍々しく渦巻いていた。
「木島晴斗……」
市川の口から低く地鳴りのような声が漏れた。
「綺麗事の正義でこの市川幸太郎を倒した気になっているのか。……いいだろう。お前がその泥沼に顔を突っ込んで毒を喰らう覚悟があるというなら……この街の底に眠る本当の闇を見せてやる」
市川はデスクの黒電話を取り上げ、市役所の内線ではなく自身の私用携帯から「ある番号」へと発信した。
それは市議会の範囲を遥かに超えた県政の絶対的権力者――かつて市川を育て上げ葉山市の再開発利権を牛耳る「県政のドン」へと繋がる直通電話だった。
虚飾のメッキを剥ぎ取られた怪物が、真の深淵を引きずり出すための最期の爪を研ぎ始めていた。




