第五十九話:見えざる劇薬
「葉山政策経済研究所」の闇を追う晴斗たちの作業は四日目の朝を迎えていた。
結衣が法務局で取得した商業登記簿と市議会事務局から開示された支出明細を突き合わせる中で、ダミー会社の真の役員名簿が浮かび上がりつつあった。
「晴斗さん、見て……!」
結衣が興奮で声を上ずらせた。
「この研究所の代表取締役になっている『佐藤一郎』という人物……。名前こそどこにでもある名前だけど、彼の住所地を住民基本台帳で確認したら市川議員の筆頭秘書の義理の弟だったわ! つまり完全に市川議員の親族・身内への資金還流よ!」
「よし……!」
若林が卓上を叩いた。
「これで完全に繋がった! 年間八百万円、過去五年で四千万円以上の公金が実態のないペーパーカンパニーを経由して市川の身内に流れている! これを記者会見で公表すれば市川の政治生命は終わりだ!」
「待ってください」
晴斗は興奮する一同を静かな眼光で制した。
「まだだ。相手は市川幸太郎だ。ただの身内への還流だけでは『調査研究委託の実態があった』と言い逃れされる可能性がある。その金が最終的に『誰のどの口座』に入り何に使われたのか。個人口座への現金引き出しの記録か税務上の決定的な不正の証拠を掴まなければ奴は潰せない」
健太と美咲も大きく頷いた。
「僕、今日の午後にその『佐藤一郎』という人物の勤務先とされている市内の中小建設会社に行って直接張り込んでみます!」
「気をつけてね健太くん。相手は追い詰められた猛獣だから……」
結衣が不安そうに健太の背中を見送った。
だが晴斗たちの追及が決定打に達する前に、市川の放った「劇薬」は青嵐の会の足元を容赦なく蝕み始めていた。
その日の昼下がり。
事務所のドアが勢いよく開かれ、顔色を失った吉岡議員が飛び込んできた。
「木島くん! 大変なことになった!」
「吉岡さん……? どうしたんですか」
吉岡の手には一冊の地元ゴシップ週刊誌とスマートフォンが握られていた。スマートフォンには大手ニュースサイトのSNS速報画面が映し出されている。
『【激震】改革派・青嵐の会に公金二重受給の疑惑! 木島晴斗議員の事務所家賃に不可解な政活動費支出か』
『「クリーン」を売りにする若手会派の暗部! 協力業者の裏金疑惑を独占追及』
「な……なんですかこれは!?」
結衣が画面を覗き込み悲鳴を上げた。
記事には晴斗たちの事務所の家賃支払いにおいて、オーナーから割引された金額と政務活動費の申請額に「差額」があり、それを晴斗が裏金としてプールしているという全く根も葉もないデタラメがまことしやかに書かれていた。さらに事務所の改修工事を請け負った地元業者から青嵐の会へ違法な政治寄付がなされているという虚偽の告発文書の画像まで添えられていた。
「こんなの完全な嘘です!」
若林が怒りに震えた。
「うちの事務所の家賃も工事費も一円単位で領収書を添付して公開している! 差額なんて一円も発生していない!」
「分かっている!」
吉岡が悲痛な声を上げた。
「だが相手は証拠の有無などどうでもいいんだ! ネット上ではすでに『結局青嵐の会も同じ穴のむじなだ』『綺麗なことを言いながら裏で甘い汁を吸っていた』と炎上し始めている! さらに……」
吉岡は息を呑み言葉を詰まらせた。
「市役所の総務部から連絡があった。我が会派の政務活動費の使途について『市民から監査請求が出された』という名目で明日から緊急の特別監査が入るそうだ……!」
「特別監査……!?」
晴斗の背筋に冷たい戦慄が走った。
市川の罠は極めて巧妙だった。
でっち上げのスキャンダルをメディアとネットに流して市民からの信用を失墜させ、同時に行政手続きである「住民監査請求」を身内に起こさせて青嵐の会の口座と書類を強制的に差し押さえる。監査が入れば晴斗たちの政務活動費の書類はすべて監査委員の手元に押収され調査作業は完全にストップする。
自分たちが清風会の闇を暴く前に、自分たちの方が「汚職議員」の濡れ衣を着せられて社会的に抹殺される。これが市川の言っていた本物の「劇薬」の意味だった。
「晴斗さん! 事務所の外にマスコミが集まってきています!」
美咲が窓の外を見て叫んだ。
窓の外にはカメラを担いだ記者たちやマイクを持ったレポーターが群がり事務所のドアを激しく叩き始めていた。
「木島議員! 記事の二重受給疑惑は本当ですか!」
「説明責任を果たしてください!」
「クリーンな政治を掲げていたのは偽りだったのですか!」
取材陣の怒号のような問いかけが雨音を突いて事務所内に響き渡る。
「くっ……! 汚い……汚すぎるぞ市川……!」
若林が悔しさに歯を食いしばり拳から血が滲むほど強く握りしめた。
虚飾の報道と行政権力を連動させた波状攻撃。
青嵐の会がこれまで積み上げてきた「クリーンで透明な政治」という唯一無二の武器が、真逆の「裏切り」という毒塗りの刃に偽装されて自分たちの胸元へと突きつけられていた。
電話が鳴り響く。地元の支援者や商店街の人々からの困惑と不信に満ちた問い合わせの嵐だった。
絶体絶命の暗雲が青嵐の会の事務所を完全に覆い尽くしていた。
晴斗は騒然とする事務所の中で静かに目を閉じた。
激しく打ち付ける心臓の鼓動。耳の奥で佐伯の冷徹な声が蘇る。
『相手が毒を使ってくるならお前たちも奴らの本当の爆弾を掘り起こして突きつけるしかない。毒には毒を食らわせる覚悟を持て』
晴斗はゆっくりと目を開けた。
その瞳から激動の動揺は消え、暗闇の底で硬く研ぎ澄まされた冷徹な意志の光が宿っていた。
「全員、取り乱すな」
晴斗の低く通った声が混乱する室内を静まり返らせた。
「市川がこれほどの劇薬を投げてきたということは……僕たちが追っている『葉山政策経済研究所』の口座の先に、奴の絶対に隠したい『最深部の致命傷』があるという証明だ」
晴斗は結衣と若林を見つめた。
「特別監査が入るまでの猶予は明日の朝までだ。今夜一晩で僕たちは市川の命脈を絶つ本物の証拠を掴む」
捏造された泥沼のスキャンダルと迫り来る行政監査の手。
晴斗たちは残されたわずか数時間の中で、市川幸太郎という巨大な闇との最終決戦へと足を踏み入れようとしていた。




