第五十八話:毒には毒を
翌朝の『青嵐の会』事務所は重苦しい沈黙に包まれていた。
窓の外では冷たい雨が打ちつけ事務所のデスクには高橋の地元である建設業者たちから届いた悲痛な要請文書が山積みになっていた。
「市川議員のやり方は徹底しているよ……」
若林が拳を強く握り締めながら呟いた。
「補助金カットだけじゃない。市発注の小規模修繕工事からも高橋さんの地元の事業者が次々と外されている。行政手続きの『見直し』という名目を盾にされている以上正攻法の一般質問や行政指導では時間がかかりすぎる。その間に業者が倒産してしまう」
健太も悔しさに唇を噛み締めた。
「そんなの汚すぎますよ! せっかく条例が通ったのにこれじゃあ高橋さんが見せしめに潰されるだけじゃないですか!」
晴斗は静かに立ち上がるとホワイトボードの前に立った。
そこには昨日佐伯から授かった冷徹な戦略の言葉が刻まれていた。
『毒には毒を食らわせる覚悟を持て』
晴斗はホワイトボードに大きく一言書き付けた。
【政務活動費・収支報告書】
「晴斗さん……これは?」
結衣が眉をひそめて尋ねた。晴斗は全員を見回し硬い声で答えた。
「市川議員たちが行政の裏を使って兵糧責めをしてくるなら僕たちは奴らの『資金の命脈』を絶つ。清風会が長年使ってきた政務活動費の領収書と収支報告書を過去五年分すべて洗い出す」
「政活動費の精査……!?」
若林がハッと息をのんだ。
政務活動費。議員の調査研究活動のために税金から交付される月額数十万円の公金だ。1円単位の領収書添付が義務付けられており少しでも私的流用や虚偽記載があれば即座に辞職勧告や刑事告発につながる「政治家の命取り」となる爆弾だった。
「清風会は最大会派だ。年間数百万円単位の公金が動いている」
晴斗の瞳に冷ややかな決意が宿っていた。
「巨額の資金を動かせば必ずどこかに歪みが生まれる。不自然なコンサルタント料同一の印刷業者への異常な高額発注実態のない研修会……。1円の領収書の不備すら逃さず徹底的に掘り起こす」
「任せてください!」
結衣が力強く立ち上がった。
「データ照合と金額の突合なら私の専門です。市役所の情報公開コーナーで開示請求できる過去の収支報告書と領収書のコピーを今すぐ全部集めます!」
「僕と美咲さんで報告書に載っている業者や事務所の所在地を実際に足で回って確認します!」
健太の目にも泥臭い闘志が蘇っていた。
それからの三日間青嵐の会の事務所は徹夜の作業場と化した。
床一面に広げられた数千枚に及ぶ領収書のコピー。
結衣はパソコンの画面に向かい清風会の議員八名分の支出データを日付順、業者順、金額順に細かく分類・照合していく。
「晴斗さん……これを見て」
三日目の深夜。疲れで目を真っ赤にした結衣が指差したパソコン画面には異様な支出の偏りが浮かび上がっていた。
「清風会の幹部三名が毎月のように『政務調査費』名目で支出しているこちらの『葉山政策経済研究所』という会社……。年間で合計八百万円以上の調査委託費が支払われているわ」
晴斗が画面を覗き込んだ。
「八百万円……。だがそんな研究所の報告書など議会図書室で一度も見たことがないぞ」
「健太くんたちが昼間その研究所の登録住所に行ってきたの。そうしたら……」
結衣が写真を提示した。
画面に映っていたのは郊外の錆びついたアパートの一室だった。看板もなくポストには新聞が溜まり生活感すら存在しない「ペーパーカンパニー」の姿だった。
「やっぱり……!」
若林が息をのんだ。
「実態のないダミー会社に政務活動費を流し込み裏で市川たちの私的資金や選挙資金として還流させているんだ! 明らかな公金横領罪だぞ!」
「まだだ」
晴斗は興奮する若林を制した。
「決定的な『金の流れ』の証拠が必要だ。このダミー会社の口座から誰の手に金が渡っているのか。そして……市川議員本人がこのスキームにどう関与しているのか」
晴斗の胸の鼓動が高鳴っていた。
巨大な権力の地下深くに張り巡らされた「毒の井戸」。その真上に自分たちは今立っていた。
同じ頃。市役所の清風会控室。
市川幸太郎は煙草の煙を吐き出しながら窓の外の闇を見つめていた。
側近のベテラン議員が焦りを含んだ足取りで入ってくる。
「市川先生……! 大変です。木島たちの事務所が市役所の情報公開窓口で我が会派の過去五年分の政務活動費の領収書をすべてコピーして持ち出しました!」
市川の手が微かに止まった。
「……何だと?」
「やつら……行政の裏工作に対抗して我が会派の『政務調査費』の使途を洗うつもりです! もし『あの件』に勘づかれたら……」
「慌てるな」
市川の低い声が部屋の空気を凍りつかせた。
市川は煙草を灰皿に押し潰すと静かに振り向いた。その目には冷酷な殺気が満ちていた。
「青二才が……綺麗な手で勝てないと知って泥沼に顔を突っ込んできたか。だがな……清風会の金の流れに触れるということはどういうことか奴らはまだ分かっていない」
市川はデスクの受話器を持ち上げダイヤルを回した。
「相手が毒を使ってくるならこちらはこの街から二度と這い上がれない本物の『劇薬』を飲ませてやるだけだ」
市川の冷酷な罠が晴斗たちの足元を狙って暗闇の中で静かに動き出していた。




