第五十七話:勝利の裏の冷えた傷口
歴史的な再可決から一夜が明けた。
『葉山市地域事業者優先発注・透明化条例』の成立を伝える新聞各紙の見出しは「市民の勝利」「巨大会派の支配崩壊」という躍動する文字で埋め尽くされていた。市役所の玄関口では通りかかる市民から晴斗へ温かい声が掛けられ事務所には祝電の電話が鳴り止まなかった。
だが市役所三階の議会フロアに漂う空気は異様なまでに冷ややかだった。
「木島議員。少々お時間よろしいでしょうか」
晴斗が控室へ向かう廊下で声をかけてきたのは清風会のベテラン幹部議員だった。その顔に昨日の敗北の陰りは一切なく冷酷な笑みすら浮かべられていた。
「昨日は見事なご活躍でしたな。三分の二の結集……誠にご立派だ。しかしね木島議員。条例という枠組みを作ることとそれを実際の予算や行政実務に落とし込むことは全く別の話だ」
「どういう意味ですか」
晴斗が足を止め問い詰めるとベテラン議員は鼻で嘲笑った。
「うちの清風会を除名された高橋君の地元だ。彼の地元の建設組合から今朝がた急な補助金カットの相談が市役所に届いていてね。……行政の判断は迅速だ。条例の趣旨に照らして公正に精査した結果だそうだよ。彼が選んだ『誇り』の代償としては少々高くつくかもしれんがね」
晴斗の背中に冷たい汗が伝った。
市川幸太郎はただ黙って引き下がったわけではなかった。自らの支配を脅かした高橋祐介に対し即座に裏からの兵糧責めを開始していたのだ。高橋の地元の事業者を圧迫し「高橋を信じた結果がこれだ」と見せつける見せしめの報復だった。
晴斗は急ぎ高橋の事務所へと向かった。
事務所のデスクで頭を抱えていた高橋は顔を上げた。その目は一晩で凄まじく落ち窪んでいた。
「高橋さん! 市川議員たちがあなたの地元の事業者に圧力を……」
「わかっている……。朝から電話が鳴りっぱなしだ」
高橋の声は乾き切っていた。
「『お前が裏切ったせいで俺たちの仕事が飛ばされた』と怒鳴られたよ。……木島。俺は悔いはない。あの白の木札を投げ入れた瞬間の晴れやかさは本物だった。だが俺を信じて背中を押してくれた地元の仲間たちが俺のせいで干される。これに耐えるのは……胸が引き裂かれそうだ」
高橋の手が激しく震えていた。
政治家個人の誇りを貫いた結果としてその足元の支持者たちが狙い撃ちにされる。これが市川の長年培ってきた「数の支配」の本質であり真の恐怖だった。
「僕たちが守ります。青嵐の会も誠和会も全力を挙げて市幹部へ不当な予算カットの撤回を求めます!」
「甘いよ木島君」
事務所の奥から重厚な声が響いた。
姿を現したのは誠和会代表の谷口だった。谷口は眉間に深い皺を刻んだまま静かに首を振った。
「行政手続き上の『見直し』という名目を立てられた場合議会がそれを直接差し止める手立ては限られている。下手に我々が騒げば行政の不当介入だと逆に清風会から叩かれる口実を与えることになるぞ」
「なら……このまま高橋さんや地元の人たちが潰されるのを見ているだけですか!?」
晴斗の叫びに対し谷口は冷徹な眼差しを崩さなかった。
「これが政治のリアリズムだ。勝利の祝杯をあげる暇などない。市川という男は敗北した瞬間に次の盤面でこちらを詰みにかかっているのだ」
その夜。晴斗は吸い寄せられるように佐伯のバーの扉を潜った。
静まり返った店内で佐伯は無言のままウイスキーのグラスを晴斗の前に差し出した。
「酷い顔だな。完勝を収めた英雄の顔には見えん」
「……佐伯さん。条例は通りました。ですが市川議員は高橋さんたちの息の根を止めるために行政の裏側を使って攻撃を始めています。僕たちが勝ったはずなのに……誰も救われていない気がするんです」
晴斗はグラスを両手で握り締め絞り出すように言った。
佐伯はタバコに火をつけ紫煙を静かに燻らせた。
「お前はまだゲームのルールを勘違いしている」
「え……?」
「条例を作ったのは単なる陣地の確保に過ぎん。相手は長年その陣地の地下に張り巡らされた『利権の網』を握っている男だ。表面のルールを変えられたなら地下の毒を使って井戸を腐らせにくるのは当然の定石だ」
佐伯の鋭い視線が晴斗の弱気を容赦なく射抜いた。
「市川を本気で潰したいなら綺麗な手だけで勝てると思うな。相手が行政手続きの隙間を突いて兵糧責めをしてくるならお前たちも奴らの『政務活動費』や『下請け選定の裏帳簿』という本当の爆弾を掘り起こして突きつけるしかない」
「裏帳簿……」
「清風会が長年集めてきた金の流れだ。1円の領収書の不備すら逃さず奴らの足元を崩す毒には毒を食らわせる覚悟を持て。……それができないなら高橋もろとも市川の執念に押し潰されるだけだ」
晴斗は琥珀色の液体を見つめながら深く息を吸い込んだ。
首長拒否権を打ち破った歓喜の瞬間は過ぎ去った。
手にした勝利の裏側にはさらに深く凄惨な「権力の泥沼」がどこまでも広範囲に広がっていたのだ。
晴斗の胸の中で青い情熱が冷たく鋭い「決意の刃」へと姿を変え始めていた。




