第五十三話:越えてゆく背中
建設委員会の審議が再開されたのは、それから二日後のことだった。
ネット中継の視聴者数は過去最高を記録し、傍聴席には入りきらなかった市民が廊下のモニター前に人垣を作っていた。ガラス張りの委員会室の中央で、田畑課長が再びマイクの前に立った。
手元のバインダーを開く田畑の手元には、二日前のような「報告の毒」を含んだ迷いはなかった。
「都市建設部より、前回の木島委員からのご指摘を踏まえた再試算結果をご報告いたします」
田畑の声が、静まり返った室内にはっきりと響く。
「既存の電子入札システムにおける未利用プログラムの活用および申請のデジタル一本化を行った場合……審査事務の遅延は発生せず、むしろ従来の紙申請と比較して、審査完了までの期間は平均で五日間短縮されることが確認されました。また、必要な運用変更費用についても、三十万円以内で収まる見込みです」
「おお……!」
傍聴席および廊下から、抑えきれない歓声が上がった。
清風会の委員たちはぐうの音も出ない表情で下を向き、卓上の資料を力なく弄ぶことしかできなかった。行政現場の壁を使って「欠陥条例」の烙印を押そうとした市川の策略は、完璧に打ち砕かれたのだ。
委員長が苦々しい顔で号鈴を鳴らした。
「静粛に! ……質疑もないようですので、これより『葉山市地域事業者優先発注・透明化条例案』の採決に入ります。本案に賛成の委員の起立を求めます」
晴斗、若林、そして誠和会と野党系の委員が一斉に起立した。
「起立多数。よって、本案は原案の通り可決すべきものと決定いたしました」
「よしっ……!」
隣で若林が低く握りこぶしを作った。
傍聴していた地元建設業者や商店街の代表者たちから、盛大な拍手が送られた。ネット中継のコメント欄にも、市民からの応援と歓喜の声援が埋め尽くされていた。
委員会が散会し、興奮冷めやらぬ廊下で、晴斗は去りゆく田畑の背中を追いかけた。
「田畑さん」
足を止めた田畑が、ゆっくりと振り返った。
市役所時代、何度も晴斗を叱責し、同時に行政マンとしてのいろはを徹底的に叩き込んでくれた元上司。その顔には、どこか憑き物が落ちたような静かな笑みが浮かんでいた。
「……見事だったよ、木島」
田畑はバインダーを小脇に抱え直し、晴斗を見つめた。
「あのシステムの未利用APIか。市川議員や幹部からの『何としてでも事務の混乱を理由に突っぱねろ』という指示に、私は職員として抗えずにいた。だが……お前は行政のロジックでそれを見破り、現場の職員を救う形で答弁を組み立ててくれた」
「田畑さん……」
「私はね、お前が市役所を辞めて議員になると言った時、苦労するのが目に見えていたから反対したんだ。だが……違っていたな」
田畑の目が微かに潤んでいた。
「お前は市役所の中にいた時よりもずっと深く行政を勉強し、現場の職員や市民の味方になっている。……もう、お前に教えることは何もない。越えていかれたよ」
田畑は晴斗に向かって小さく、しかし深く頭を下げると、そのまま足早に庁舎の奥へと去っていった。
晴斗はその背中が見えなくなるまで、深く一礼を続けながら見送った。
かつて自分を育ててくれた古い行政の背中を、自らの力で乗り越えた瞬間だった。
だが、議会の戦いはこれで終わりではなかった。
委員会での可決を受け、残すは三日後の本会議における最終採決のみとなった。
「青嵐の会」と「誠和会」が組んだ現状の勢力であれば、本会議での可決はほぼ確実と見られていた。
その日の夜。市川幸太郎は、市長室の応接セットで一人、市長と対峙していた。
「……市川先生」
市長が困惑した表情で汗を拭いながら言った。
「建設委員会での条例案可決、ネットでも大変な話題になっております。このまま本会議で可決されれば、我が市としても拒む理由は……」
「甘いことを言うな!」
市川が机を叩いた。低い重低音が市長室に響く。
「こんな青二才どもの思い付きの条例を通してみろ。これまで我々が築いてきた市政のコントロール権が完全に奪われるんだぞ。公共事業の配分権を奪われれば、お前の次の市長選の組織票だって吹き飛ぶんだ!」
「しかし……議会の過半数を握られている以上、本会議での可決を止める手立てはもう……」
市川の口元が、暗く歪んだ。
「まだある」
市川は懐から一枚の文書を取り出し、市長の前に滑らせた。
「地方自治法第百七十六条……『再議権』だ」
市長が目を見開いた。
「再議権!? 議会で可決された条例案に対して、市長が拒否権を発動して再審議を求めるということですか!? そんなことをすれば、市民からの反発は免れません!」
「反発など一時の風だ」
市川は立ち上がり、窓の外の街並みを見下ろした。その瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。
「市長拒否権が行使されれば、再可決には議会の『三分の二以上』の賛成が必要となる。青嵐の会と誠和会を合わせても、三分の二には届かない。……条例は永久に廃案だ」
「そこまで……するおつもりですか」
「木島晴斗……。お前がどれだけガラスの透明性を叫ぼうと、この街の最高権力者が誰であるか、最後に思い知らせてやる」
市川の冷酷な罠が、本会議の先にある「再議」という最大の壁となって、晴斗たちの前に立ちはだかろうとしていた。




