第五十四話:拒否権の影
三日後の本会議場は、議会開設以来とも言われる満員の傍聴客と報道陣で熱気に包まれていた。
議長が号鈴を鳴らし、議題を告げる。
「日程第1、『葉山市地域事業者優先発注・透明化条例案』に対する委員長報告および質疑、討論に入ります」
建設委員長から試算見直しの経緯と可決の報告がなされた後、賛成討論に立ったのは『青嵐の会』代表の若林だった。
「本条例案は、特定の政党や勢力のためのものではありません。密室の口利きを廃し、透明なルールのもとで地元事業者の努力が報われる市議会・市政を作るための決定的な第一歩です。議員各位の良識あるご賛同を強く求めます」
反対討論には清風会のベテラン議員が立ったが、すでに委員会での田畑課長の再試算によって「行政現場の混乱」という最大の反対口実は消滅していた。声には焦りと空しさが滲んでいた。
「これより採決に入ります。本案に賛成の議員の起立を求めます」
議長の宣言とともに、晴斗をはじめとする『青嵐の会』の七名が一斉に起立した。
続いて『誠和会』の四名、野党系の六名、そして無所属議員の一名が立ち上がった。
全二十八議席のうち、十八名が起立。
「起立多数! よって、本案は原案の通り可決されました!」
議長が苦痛に満ちた顔で宣言した瞬間、傍聴席から割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。コメント欄にも「歴史が変わった!」「公明正大な葉山市へ!」という書き込みが殺到した。
「やった……! 通ったぞ!」
健太が傍聴席で隣の美咲と手を叩き合って喜び、若林も晴斗と強く握手を交わした。
市民の目と熱量が、長年市川の「数の支配」に縛られてきた議会を動かした快挙だった。
だが――議場を去る市川幸太郎の口元には、薄気味悪い嘲笑が浮かんでいた。
歓喜の余韻が冷めやらぬ同日、夕刻五時。
市役所四階の記者会見場に、緊急の会見通知が出された。
集まった記者たちの前に現れたのは、硬い表情を浮かべた市長だった。
マイクの前に立った市長は、用意された原稿に視線を落とし、掠れた声で読み上げ始めた。
「本日、市議会本会議におきまして可決されました『葉山市地域事業者優先発注・透明化条例案』について……市長としての見解を発表いたします」
記者たちが一斉にカメラを向け、ペンを走らせる。
「本条例案は、手続きの透明性を高めるという理念においては理解できるものの、高度なデジタル運用の導入や審査基準の変更に伴い、将来的に行政事務に予期せぬ混乱を生じさせ、市民サービスおよび地域経済の安定に重大な支障を及ぼす懸念を拭えません。よって……地方自治法第百七十六条の規定に基づき、本条例案を議会へ押し戻し、再審査を求める『再議権』を行使いたします」
「なっ……!?」
会見場に大きなどよめきが走った。
「市長! 事実上の拒否権の発動ですか!?」
「建設委員会で事務遅延はないと再試算が出たばかりですよ! なぜこのタイミングで拒否権を!?」
記者たちから矢継ぎ早に質問が飛んだが、市長は「慎重な施策の推進のためです」と繰り返すばかりで、一度も記者と目を合わせようとはしなかった。
「市長拒否権の発動……!?」
『青嵐の会』の事務所でニュース速報を見た健太が、持っていた資料を落とした。
テレビ画面には、『葉山市長、議会可決の透明化条例に再議権行使――前代未聞の拒否権発動』というテロップが躍っていた。
事務所に集まっていた美咲や結衣、そして駆けつけた誠和会の谷口も、顔色を失っていた。
「……市川先生め。そこまでやるか」
谷口が悔しそうに拳でテーブルを叩いた。
「再議権か……。議会で可決された条例案に対して、首長が拒否権を発動して議会にやり直しを命じる制度だ。そして……再議に付された条例案が再び可決されて正式に成立するためには、出席議員の『三分の二以上』の賛成が必要となる」
結衣が青ざめた顔で電卓を叩いた。
「全二十八議席の三分の二……つまり、最低でも『十九議席』の賛成が必要です。……でも、今の私たちの賛成票は、青嵐(7)+誠和(4)+野党(6)+無所属(1)の、合計『十八票』です……!」
「一票……届かない……!」
健太が悲痛な声を上げた。
「可決されたはずの条例が、あとたった一票足りないだけで……永久に廃案になるっていうんですか!?」
「そうだ」
若林が低く重い声で言った。
「市川先生の狙いは最初からこれだったんだ。委員会や本会議で過半数を取られて可決されることすら計算に入れ、最後は市長の拒否権を使って『三分の二』という高いハードルを突きつけ、確実に握り潰す……。清風会の八議席が固まっている限り、どうあがいても十九票には届かない」
事務所内に、冷たい絶望感が広がっていった。
市民の圧倒的な支持を集め、行政の論理を真っ正面から解体し、過半数の賛成を得て通過させた条例。
しかし、権力の頂点に君臨する男が最後に繰り出したのは、地方自治法という法制度そのものを武器にした「拒否権」という名の冷酷な壁だった。
「……木島くん」
谷口が静かに晴斗を見つめた。
「再議の本会議は、来週の定例会最終日に行われる。あと数日で、清風会の固い壁から『一票』を崩すか、あるいは未態度表明の議員を味方につけなければ、我が選択は全て水泡に帰す。……どうする?」
全員の視線が、晴斗に集まった。
晴斗は静かに目をつむり、自らの胸の鼓動を聞いていた。
一度は掴んだ勝利の手応え。そして、それを上から押し潰そうとする権力の執念。
市川幸太郎という男の底知れない深謀遠慮に、身の毛がよだつような恐怖を感じなかったと言えば嘘になる。
だが――晴斗の胸の奥で燃える火は、消えてはいなかった。
晴斗は目を開けた。その瞳には、暗闇を射ぬく澄み切った光が宿っていた。
「市川議員は『数』と『制度』で僕たちを追い詰めた気になっている」
晴斗は力強い声で言った。
「だが、市川議員が忘れているものがあります。それは、この条例を望んでいる『市民の本当の熱量』です。再議権の行使は、市民の意思を市長と市川議員が真っ向から踏みにじんだという証拠でもある」
晴斗は立ち上がり、ホワイトボードの清風会八名のリストを見つめた。
「十九票目を獲りに行きましょう。制度の壁が三分の二なら、それを越えるだけの『風』を、この街全体から巻き起こすんです」
絶望の淵に立たされた『青嵐の会』。
条例の命運を決する最後の「再議本会議」に向けて、晴斗たちの命がけの「一票を巡る攻防」が始まろうとしていた。




