第四十八話:見えない圧
本会議での修正案可決から三日。
新聞の地方版に「葉山市議会、過半数割れで波乱の船出」という見出しが大きく躍った。しかし、晴斗たちの事務所にもたらされたのは、勝利の余韻ではなく、冷たく重苦しい緊張感だった。
「……若林さんの地元の事務所、完全に人手が引いたそうです」
健太が神妙な面持ちで報告した。
「神谷建設の後援会長が正式に辞任を発表しました。それどころか、若林さんの事務所に貸し出されていた車や事務機器まで全て引き上げられたそうです。完全に干し上げにかかっています」
晴斗は深く息を吐いた。
市川の予告した「政治の泥沼」が、恐ろしい精度と速度で若林を襲っていた。親の代から続いた地元の強力な後援会組織が、一夜にして霧のように消え去ったのだ。事務所の電話は鳴り止まず、昔からの支援者からの「裏切り者」「お前の親父が泣いている」といった怒声や悲鳴に近い抗議が相次いでいるという。
その日の午後、晴斗は市役所の控室で若林と顔を合わせた。
若林の目の下には濃い隈が落ちていたが、背筋だけはまっすぐに伸ばしていた。
「……ご心配をおかけしてすみません」
若林は自嘲気味に微笑んだ。
「神谷社長からは『親父さんの顔に免じてこれまでは付き合ってきたが、清風会を泥で汚すような奴はもう応援できない』とはっきり言われました。覚悟していたつもりでしたが……いざ突きつけられると、足元が崩れ落ちるような感覚ですね」
「若林さん、一人で抱え込まないでください」
晴斗は力強く言った。
「あなたを孤立させることが、市川議員の最大の狙いです。地盤を失ったあなたが潰れれば、新会派『青嵐の会』は足元から崩れる」
「分かっています」
若林は深く頷いた。
「ですが、市川先生の手口はこれだけではありません。今日、議会運営委員会(議運)の理事会が開かれました」
議会運営委員会――通称「議運」。
議会の会期日程や発言時間、委員会ポストの配分など、議会運営のすべての実務を取り仕切る要の組織だ。これまでは清風会が過半数を背景に仕切ってきたが、今回の新会派誕生により、議運の構成人数も大幅な見直しを迫られていた。
「市川先生は、我が『青嵐の会』に対して、常任委員会の委員長職を一つも割り当てない姿勢を崩していません」
若林は苦々しい表情で続けた。
「それどころか、初当選の吉岡議員や福祉派の長島議員のところにも、清風会のベテラン議員が個別で接触しています。『青嵐の会にいても、委員会での発言枠もポストももらえず、市民の要望を予算に反映できないぞ』と」
日本の地方議会において、議員が政策を実現するための主戦場は本会議だけではない。総務、厚生、建設といった「常任委員会」での審査こそが実質的な決定権を持つ。
どんなに素晴らしい政策を掲げても、委員会でポストを得られず、発言機会を制限されれば、議員としての手足を奪われたのも同然となるのだ。
「特に吉岡さんは……元市役所職員だけに、議会実務の厳しさを知っている分、動揺が隠せないようです」
「吉岡さんに会ってきます」
晴斗は立ち上がった。
夕方、晴斗は市役所地階の食堂で、吉岡と二人で向かい合っていた。
前回の選挙で無所属で初当選した吉岡は、三十代半ばの真面目な男だ。市役所時代に見た行政の無駄を正したいと志して議員になったが、今の表情には深い疲労が滲み出ていた。
「木島さん……」
吉岡は手元のコップを見つめながら、ぽつりと漏らした。
「今日、清風会の先輩議員から呼び出されました。『次の改選で、うちの会派の公認を出してやる。建設委員会の副委員長ポストも用意する。だから青嵐の会からは抜けろ』と」
「……吉岡さん」
「断りました。もちろん断りましたよ!」
吉岡は声を荒らげ、すぐに周囲を気にして声を落とした。
「だけど、恐ろしいんです。彼らは僕の地元の自治会長や、元上司のOBにまで手を回しています。『吉岡が勝手なことをすると、お前の地域の道路改修予算が削られるぞ』って……。僕一人が突っぱねることで、僕を信じて票を投じてくれた地元の市民に迷惑がかかるんじゃないかって……」
声が微かに震えていた。
それこそが、市川が長年誇ってきた「数の支配」の真骨頂だった。
議員個人を叩くのではない。その議員を支える地元地域や人間関係に「実害」を匂わせることで、内側から精神を破壊していくのだ。
「吉岡さん」
晴斗は吉岡の目をじっと見つめた。
「彼らが言っている『予算を削る』というのは、ただの脅しです。なぜなら、今の清風会には単独で予算を削る『数』がないからです」
吉岡がはっと目を見開いた。
「俺たちが一枚岩でいる限り、市川議員たちは何も決められません。地域の予算を守るのも、歪んだ利権を正すのも、俺たちが『過半数』という壁になって立ち塞がっているからこそできるんです。もしあなたが引き抜かれれば、議会は元の暗闇に逆戻りします」
晴斗はテーブル越しに吉岡の手をしっかりと握った。
「恐怖に屈して手に入れたポストで、本当に市民のための仕事ができますか? 道路一本の予算と引き換えに、議会全体のチェック機能を差し出すことになります」
吉岡は固く目をつむり、何度も深く息を吐き出した。
やがて目を開けたとき、その瞳には小さな、しかし確かな光が戻っていた。
「……すみません、木島さん。弱音を吐きました。僕も……市役所を辞めてまで議員になったんです。安易な脅しに屈したら、応援してくれた人たちに顔向けができません」
「ありがとうございます、吉岡さん」
晴斗が胸を撫で下ろしたその時、ポケットのスマホが激しく振動した。
画面には、若林の名前が表示されていた。
「木島さん、すぐ議会控室に来てください!」
若林の切迫した声が響いた。
「市川先生が動き出しました。野党系会派と中道系の『誠和会』に対して、来年度の大型開発事業の予算配分をエサに、裏で手打ちを模索しています。俺たちの『青嵐の会』を孤立させるための、包囲網が敷かれようとしています!」
晴斗の表情が険しく引き締まった。
身内の切り崩しに失敗したと見るや、市川はすぐさま他会派への「利権の切り売り」による多数派工作へと舵を切ったのだ。
表舞台の華々しい可決からわずか数日。
見えない場所で蠢く権力の執念が、晴斗たちの足元を再び侵食し始めていた。




