第四十七話:激動の本会議
午前十時。
本会議場の大型扉が開かれると、傍聴席を埋め尽くした市民や記者たちの視線が一斉に議員席へと注がれた。
議場内の座席配置は、開会直前に提出された会派結成届によって一変していた。
最前列の中央、これまでは「無所属」として端に追いやられていた晴斗の隣に、若林をはじめとする旧清風会の若手・中堅議員たちが並んで着席している。
デスクの上に置かれた会派名札には、鮮やかな青文字で『青嵐の会』と記されていた。
一方、議場右手を占めていた巨大な黒い塊――清風会のエリアは、四つの空席が生まれたことでどこか寒々と見えた。最背後の一等席に座る市川幸太郎の顔は、般若のように苦々しく歪み、手元の資料を苛立たしげにめくっている。
「……信じられん。あの若林が、市川先生を裏切って木島と組むとは」
「清風会が八議席……過半数どころか、単独では何も決められないじゃないか」
議員たちの間で、抑えきれないひそひそ話が波のように広がっていた。
「静粛に、静粛に願います」
議長席に座る清風会出身のベテラン議長が、引きつった声でベルを鳴らした。
全二十八議席の新たな内訳は、最大会派『清風会』が八議席、新会派『青嵐の会』が七議席、野党系会派が六議席、中道系会派『誠和会』が四議席、そして無所属が三議席。
過半数は十五議席。どの会派も、一会派だけでは過半数を握ることができない「絶対的な絶対者なき議会」が誕生したのだ。
本会議の冒頭、最初の試練が訪れた。
議長の任期満了に伴う「新議事進行および補正予算案の審議順序」に関する採決だった。
これまでは、清風会が提出した原案が、何の議論も経ずに数の力でそのまま可決されるのが常態化していた。だが、今回は違った。
清風会側から出された「市営開発事業の追加予算を含む優先上程案」に対し、すかさず若林が挙手をした。
「議長、挙手発言を求めます」
若林の朗々とした声が議場に響き渡る。
市川が鋭い眼光で若林を睨みつけたが、若林は一切目を逸らさず、登壇してマイクに向かった。
「ただいま清風会より提出された提案ですが、追加予算の使途において市民への説明が不十分な項目が含まれております。我が『青嵐の会』は、この優先上程に反対し、まずは市民生活に直結する『小中学校のエアコン改修および防犯灯増設の補正予算』を優先して審議することを提案いたします」
議場が大きくどよめいた。
若林が登壇して発言した内容は、彼が清風会時代に市川の指示で「時期尚早」と切り捨ててきた課題そのものだった。
「何を勝手なことを! 会派の協定を破る気か!」
清風会のベテラン議員が怒鳴り声を上げた。
しかし、晴斗が静かに立ち上がり、討論に立った。
「清風会の皆様。議会は会派の都合のためにあるのではありません。市民の命と暮らしを守るためにあります。本補正予算の優先順位を見直すことは、多くの市民が待ち望んでいた改革です」
晴斗の言葉に続いて、中道系会派『誠和会』の代表者、そして野党系会派の議員たちが次々と賛同の意を示した。
「採決に入ります」
議長が苦痛に満ちた表情で告げた。
「本日の議題順序につき、青嵐の会より提出された修正案に賛成の議員の起立を求めます」
一瞬の静寂の後。
まず『青嵐の会』の七名が、示し合わせたように一斉に起立した。
続いて、野党系の六名、そして『誠和会』の四名が次々と立ち上がった。
合計十七名。
過半数の十五を大きく上回る議員が、青嵐の会の提案に賛成の意を示して起立していた。
起立せず座ったままの清風会・八名の姿が、浮き彫りになる。
「……起立多数。よって、修正案の通り可決されました」
可決された瞬間、傍聴席から「おーっ!」という歓声と拍手が沸き起こった。
議場最背後で、市川が固く拳を握りしめ、青筋を浮かべていた。
長年、この葉山市議会を支配してきた「数の王国」が、目の前で音を立てて崩れ去った瞬間だった。
昼の休憩時間。
議員控室前の廊下で、晴斗と若林は並んで歩いていた。
「……冷や汗が出ましたよ」
若林が苦笑いを浮かべながら、ネクタイを少し緩めた。
「議場に入った瞬間、昔の仲間たちからの視線が刺さるようでした。裏切り者、恩知らず……そう言われているのが痛いほど分かった」
「若林さん」
晴斗は足を止め、若林に向き直った。
「あなたの投じた一票で、今日の午後の審議で公園の安全対策と学校の改修予算が前進します。それが、あの視線に耐えた答えですよ」
若林は一瞬目を見張り、それから力強く口元をほころばせた。
「ええ……そうですね。清風会の指示通りにボタンを押していた頃とは、比べものにならないくらい胸を張れます」
その時、廊下の向こうから市川が一人で歩いてきた。
取り巻きを連れず、怒りを押し殺した無表情で近づいてくる。
晴斗と若林は足を止め、背筋を伸ばして市川を迎えた。
市川は二人の前で足を止めると、冷ややかな視線を若林に向けた。
「一回勝ったくらいで浮かれるなよ、若林。……そして木島」
市川の視線が晴斗へと移る。その瞳の奥には、これまでのような見下すような余裕はなく、本物の敵として晴斗を捉える暗い情念が宿っていた。
「数を得た気になっているようだが、政治の泥沼はここからだ。会派が増えれば調整も増える。烏合の衆がいつまで一枚岩でいられるか……見ものだな」
市川はそう言い捨てると、肩を怒らせて去っていった。
「……脅しではありませんね」
若林が低く呟いた。
「市川先生は、必ず僕たちの崩しにかかってきます。青嵐の会のメンバーや、今日協力してくれた他会派への切り崩しが今夜から始まるはずです」
「ああ」
晴斗は遠ざかる市川の背中を見つめながら、静かに頷いた。
「風は吹き始めた。だけど、この風を本物の嵐にするか、一陣の気まぐれで終わらせるかは、俺たちの覚悟次第だ」
螺旋の階段をまた一歩登った晴斗たち。だが、その先には「数の支配」を失った権力者が牙を剥く、さらなる激闘が待ち受けていた。




