第四十六話:前夜の暗闘
定例会開会を翌日に控えた夜、晴斗の事務所には異様な緊張感が漂っていた。
ホワイトボードに貼られた議会図の横で、健太が何度もスマホの画面をチェックし、美咲は淹れたてのコーヒーを置く手さえ少し震わせていた。
「晴斗さん……本当に、若林さんたちは来るでしょうか」
結衣がキーボードを打つ手を止め、不安げな目を晴斗に向けた。
机の上には、市議会事務局へ提出するための「新会派結成届」の書類が静かに置かれている。
そこにはすでに、晴斗、長島、吉岡の三人の署名と捺印が済んでいた。あとは若林をはじめとする離脱組四人の署名が入れば、新会派『青嵐の会』が正式に発足する。
「連絡は……まだ入っていません」
健太が低く答えた。
「市川議員の側も、間違いなく勘づいています。ここ数日、清風会の若手議員たちの周辺で、地元企業の幹部や後援会幹部が頻繁に動いているという情報が入ってきています。徹底的な締め付けが行われているはずです」
晴斗は窓の外の静まり返った街並みを見つめた。
市川の威光と長年築かれた利権の網は、想像以上に頑丈で恐ろしい。若林たち若手議員にとって、清風会を去ることは政治家としての基盤を根底から破壊されるリスクを伴う。親の代からの後援会、地元企業からの献金、次の選挙での推薦……すべてを失うかもしれない恐怖と戦っているのだ。
「待とう」
晴斗は静かに言った。
「これは俺たちが強要するものじゃない。若林さんたちが自分の意志で、自分の足で踏み出してくるのを信じるしかないんだ」
晴斗自身、一期目の四年間、孤立無援の恐怖と戦い続けてきた。だからこそ、その一歩を踏み出すことがどれほど骨の折れる覚悟を要するか、誰よりもよく知っていた。
同じ頃、若林は自室の書斎で、照明もつけずに一人暗闇の中に座り込んでいた。
デスクの上のスマホが、ひっきりなしにブザー音を響かせている。
画面に表示されているのは「後援会長・神谷」の名だった。地元の建設会社社長であり、亡き父親の代から若林家を支え続けてくれた最大の恩恵人だ。
出なくても、何を言われるかは分かっていた。先ほど市川から直々に神谷へ電話が入り、「お前のところの坊主が余計な企みをしているようだぞ」と釘を刺されたに違いない。
出なければ、明日、後援会は解散するだろう。
次の選挙で自分の名前が書かれたポスターが街から消え、冷ややかな視線と裏切り者の烙印だけが残る。
『政治は数と貸し借りだ。それ以外は全て飾りに過ぎん』
市川の冷酷な声が脳裏をよぎる。
若林は震える手でデスクの上の引き出しを開け、一冊の古いノートを取り出した。
父親が議員時代につけていた日誌だった。そこには、地元のために泥をかぶり、頭を下げ、泥臭く奔走した記録が几帳面な字で残されていた。
そして最後のページには、若林が初当選した日に父親が書き残した一行があった。
『市民の誇りとなる政治家なれ』
「親父……」
若林は固く目を閉じ、深く長い息を吐き出した。
市川の陰に隠れ、言われるがままに賛成票を投じ、裏で市民の税金が歪められていくのを見過ごす。それが「親の地盤を守る」ということなのか。
自分はなんのために、あの激しい選挙戦を勝ち抜いてトップ当選を果たしたのか。
若林は胸ポケットから、晴斗から渡されたあのメモを取り出した。
『どの泥を被る覚悟があるかだけだ』
佐伯の言葉であり、晴斗が自らに課してきた覚悟の証明。
安全な籠の中で親の威光を喰いつぶしながら死んでいく泥か。
すべてを失う覚悟で、自分の足で荒野へ踏み出す泥か。
若林の瞳から、迷いの色が消えた。
彼は鳴り続けるスマホの電源を静かに切り、机の上のペンを握りしめた。
翌朝、午前八時三十分。
葉山市役所五階の議会事務局前は、静まり返っていた。
定例会開会は午前十時。会派の結成や変更の届出期限は、開会一時間前の午前九時と定められている。
晴斗は結衣と健太を伴い、書類を持ったまま事務局前の廊下に立っていた。
残り時間はあと三十分。
「晴斗さん……」
健太が時計と廊下の奥を何度も往復して見つめる。
その時、エレベーターの扉が開き、重々しい足音が廊下に響いた。
現れたのは、市川幸太郎だった。
背後に三人のベテラン議員を従え、威風堂々と歩いてくる。市川は晴斗たちの姿を認めると、立ち止まり、不敵な笑みを浮かべた。
「ほう、木島議員。朝早くから何をしているのかね。またパフォーマンスの準備か?」
「市川議員」
晴斗はまっすぐに市川の視線を受け止めた。
「議会の新しい風を迎える準備ですよ」
「風、ねえ……」
市川は鼻で笑うと、晴斗に近づき、低く耳元で囁いた。
「若い者はすぐに夢を見る。だがな、現実はそう甘くはないぞ。お前が唆した若手どもなら、今頃自分の控室で青ざめて震えているよ。己の分不相応な野心が、どれほどの災厄を招くか思い知ったようだからな」
市川の言葉には、完璧な圧勝を確信する絶対的な絶対感があった。昨夜のうちに、若手たちの足元を完全に切り崩したという自信。
その時だった。
廊下の向こうから、鋭く力強い足音が近づいてきた。
全員の視線が一斉にその方向へ向けられる。
廊下の角を曲がってきたのは、スーツ姿の若林だった。
そしてその背後には、清風会の若手・中堅議員である三人の姿があった。全員、顔色は蒼白だったが、その瞳には決して退かない強い意志が宿っていた。
市川の笑みが凍りつく。
「若林……? お前、何をしている」
若林は市川の問いかけには答えず、まっすぐに晴斗の前まで歩み寄った。
そして、晴斗の持つ「新会派結成届」の書類を見つめ、ポケットから自分の議員印を取り出した。
「待たせました、木島さん」
若林は晴斗の目を見つめ、力強く頷いた。
「俺たちの『青嵐』を、始めましょう」
若林は書類を壁に押し当てると、迷いのない手つきで自身の名前を署名し、朱肉をつけて分厚く印を押した。続いて背後の三人も、一人ずつ順番に署名と捺印を重ねていく。
「お前たち……! 正気か!?」
市川の怒号が廊下に響き渡った。顔を真っ赤に染め、目を見開いて若林に詰め寄る。
「自分が何をしたかわかっているのか! 会派を裏切り、親の後援会を潰す気か! 政治生命は終わりだぞ!」
若林はゆっくりと振り向き、市川の激怒を真っ正面から受け止めた。その表情には、憑き物が落ちたような澄み切った強さがあった。
「市川先生。長年、お世話になりました」
若林は深く、静かに頭を下げた。
「ですが、私は市民の誇りとなる政治家になりたいのです。先生の作った籠の中で終わるつもりはありません」
「この……青二才が……!」
若林は市川から視線を外すと、完成した届出用紙を晴斗とともに受け取り、事務局のカウンターへと提出した。
「受付をお願いします。新会派『青嵐の会』、七名です」
事務局員が受領印を押すカチャンという音が、静まり返った廊下に寂しく、しかし決定的な合図として響いた。
葉山市議会最大会派「清風会」の過半数が、完全に崩壊した瞬間だった。




