第四十五話:崩れる足場
事務所のホワイトボードには、葉山市議会の全二十八議席の名前と所属会派が整然と並べられていた。
健太が青と赤のマーカーを手に取り、素早い手つきで円を描いていく。
「現在の勢力図はこうです」
健太が指し示したのは、ホワイトボードの左側に位置する巨大なブロックだった。
「最大会派『清風会』が十二議席。市川議員を頂点としたこの十二人が握っている票で、これまでの議会はほぼ全ての予算と条例を動かしてきました。対する野党系会派が六議席、中道系会派『誠和会』が四議席。そして晴斗さんを含む無所属が六議席です」
「過半数は十四議席……」
美咲が腕を組みながら呟いた。
「清風会はあと二議席で単独過半数。これまでは無所属や他会派の推薦議員を抱き込むことで、常に数の暴力を行使してきたわけね」
「ですが」
健太は赤のマーカーを強く握り直し、清風会の十二人のリストのうち、若林を含む四人の名前に赤い二重線を引いた。
「もし、若林さんたち若手・中堅の四人が清風会を離脱した場合、清風会は八議席にまで激減します。そして、その離脱組四人と、晴斗さんたち無所属の中で志を同じくする者三人が合流すれば……」
健太が青い線で新しいブロックを囲んだ。
「合計七議席の新会派が誕生します。これは清風会の八議席に次ぐ議会第二勢力であり、どの会派もこの七議席の動向を無視しては何も決められない『キャスティングボート』を完全に握る計算になります」
事務所内にピンと緊張した空気が張り詰めた。
ただの絵空事ではない。長年、市川の独裁下に置かれていた葉山市議会の「数の構造」が、たった数人の動向によって劇的に瓦解する絶妙な数字の境界線だった。
「無所属の他のメンバーへの打診はどうなっている?」
晴斗の問いに、結衣がPCの画面から目を上げて答えた。
「二期目のベテランである福祉派の女性議員・長島先生と、前回の選挙で無所属で初当選した元市役所職員の吉岡さん。二人とも、清風会主導の強引な議会運営には強い不満を持っています。晴斗さんが『政策本位で動く新会派を作る』と伝えたところ、かなり前向きな感触を得ています」
「よし……」
晴斗は胸の内で静かに拳を握りしめた。
外側の準備は着々と整いつつある。あとは、清風会の内部で若林がどちらに舵を切るかだけだった。
その頃、市役所四階にある清風会の議員控室では、重苦しい沈黙が空間を支配していた。
豪華な応接セットのソファに深く腰掛けた市川幸太郎が、手元の書類からゆっくりと顔を上げた。
その鋭い視線の先には、窓際に立つ若林の姿があった。
「若林」
市川の低く重い声が響く。
「最近、ずいぶんと忙しそうじゃないか。他会派の若手や、無所属の議員たちと頻繁に接触しているという噂を聞くが」
若林は一瞬だけ背筋を凍らせたが、すぐに完璧なポーカーフェイスを作り直し、市川に向き直った。
「次の定例会で提出予定の、地域経済活性化条例の下調べですよ。市川先生。多様な意見を聞いておくに越したことはありませんから」
「ふん……」
市川は鼻で笑うと、煙草に火をつけた。白い煙がゆらりと立ち上り、若林の視界を遮る。
「余計な動きはするなと言ったはずだ。木島のような害虫は、無視して干上がらせるのが一番の薬だ。あんな鼻ひねりに手を差し伸べるような真似をすれば、お前の親父さんの顔に泥を塗ることになるぞ」
「……分かっています」
「お前は次の会派幹事長に推薦してやるつもりだ。清風会の中で実績を積み、いずれは俺の後を継げばいい。余計な野心や青臭い理想は捨てるんだ。政治は『数』と『貸し借り』だ。それ以外は全て飾りに過ぎん」
市川の言葉は、まるで逃げ場を塞ぐ鉄格子のように若林にのしかかった。
いつもの若林なら、ここで深々と頭を下げ、「お言葉通りにします」と答えていただろう。それがこの四年間、彼が学んできた効率的な生き残り策だったからだ。
だが、若林のスーツの胸ポケットには、あの夕闇の展望ロビーで晴斗から手渡された一枚のメモが入っていた。
『どの泥を被る覚悟があるかだけだ』
佐伯から晴斗へ、そして晴斗から自分へと突きつけられたその言葉が、若林の胸の奥で熱い火種となってくすぶっていた。
「……市川先生」
「ん?」
「もし……もし仮に、我が会派の強硬な姿勢が、次の選挙で市民からの批判を浴びることになったら、どうされるおつもりですか」
市川の目が細められた。部屋の中の空気が一瞬で氷点下にまで下がる。
「若林。お前、何か勘違いしていないか?」
市川は煙草を灰皿に押し付けながら、冷酷な笑みを浮かべた。
「市民などというものはな、喉元過ぎれば熱さを忘れる生き物だ。目先の小さな恩恵と組織の締め付けがあれば、最後は必ず我々に票を入れる。……お前の後援会の会長が誰か、忘れたわけではあるまいな?」
それは、明らかな脅迫だった。
若林の父親時代からの最大の支援者である地元建設企業の会長は、市川の親友でもあった。若林が清風会に反旗を翻せば、次の瞬間には後援会が空中分解し、政治生命を絶たれることを意味していた。
若林は喉の奥が乾くのを感じながら、頭を下げた。
「……失礼いたしました。出過ぎたことを申しました」
「分かればいい」
市川は興味を失ったように再び手元の書類に目を落とした。
部屋を出た若林は、誰もいない廊下の壁に背中を預け、固く目をつむった。
冷や汗が額を伝う。
手の中のメモを握りしめる指が、微かに震えていた。
安全な籠の中で飼い殺されるか。
全てを失うリスクを冒して、荒野へ飛び出すか。
定例会開会まで、あと三日。
決断の刻限は、容赦なく迫っていた。




