第四十四話:逆手の条件
市役所最上階にある展望ロビーの窓からは、夕闇に包まれ始めた葉山市の街並みが一望できた。
新興住宅地の街灯がぽつぽつと灯り始め、遠くの幹線道路を車のヘッドライトが赤と白の光の帯となって流れていく。
晴斗はその光景を静かに見下ろしていた。あの街のあちこちに、一期四年で向き合ってきた市民たちの暮らしがある。
「待たせましたね」
背後から整った足音が近づき、若林の声が響いた。
相変わらず隙のないスーツに身を包んだ若林は、晴斗の隣に並んでガラス窓の外に視線を向けた。
「こんな人目のつく場所を指定するとは思いませんでしたよ。個室の料理屋でも手配したのですが」
「ここは市民の税金で作られた場所です。コソコソ隠れて話すような内容じゃありませんから」
晴斗が穏やかに言うと、若林はフッと口元を緩めた。
「相変わらず真面目ですね。……で、返事は決まりましたか? 清風会に入っていただけるなら、次の定例会であなたの提出する公園安全条例の修正案を我が会派の優先議案として上程します。予算の優先順位も、市川先生に掛け合って枠を確保させますよ」
若林の口調には、自身の提示した条件に対する絶対的な自信が滲み出ていた。
無所属の弱小議員が四年間喉から手が出るほど欲しがっていた「数」と「実行力」。それを無条件に近い形で差し出しているのだから、断る理由などないはずだという確信。
晴斗は窓の外を見つめたまま、静かに口を開いた。
「若林さん。ひとつだけ訊かせてください」
「何でしょう」
「あなたが本当に変えたいのは『この葉山市』ですか。それとも『清風会の中でのあなたの立場』ですか」
若林の笑みが一瞬で消えた。隣で空気が凍りつくのがわかる。
「どういう意味ですか」
「言葉通りの意味です」
晴斗はゆっくりと振り向き、若林の目を見つめた。
「あなたは一期目、市川議員の忠実な手駒として動いてきた。巨大開発の賛成票を投じ、俺たちの提出した市民向けの請願を冷酷に切り捨ててきた。そして二期目になり、トップ当選を果たして会派内での発言力を得た途端、『清風会を変えるために外の血を入れたい』と俺に言った」
晴斗は一歩、若林へと踏み出した。
「本当に会派や議会を変えたいと思っているなら……なぜあなた自身が、その腐りかけた清風会から出て来ないんですか」
若林の眉間にしわが寄った。予期せぬ言葉をぶつけられた動揺を隠すように、彼は声を低くした。
「……無茶を言わないでいただきたい。清風会は市議会第一会派だ。過半数に近い議席と、長年築いてきた組織力がある。その内側にいるからこそ政治を動かせるんだ。外に出てただの弱小会派になれば、何もできなくなる。あなた自身がこの四年間、それを痛感してきたはずだ」
「ええ、痛感しました」
晴斗は真っ直ぐに答えを返した。
「無力でしたよ。提案はことごとく否決され、廊下の突き当たりの物置部屋に押し込められた。だが、俺は自分の看板と信念だけは売らなかった。だからこそ、今回の選挙で二千人以上の市民が、組織票もなしに俺に票を託してくれたんだ」
晴斗は胸ポケットから、昨夜事務所で整理したメモを取り出し、若林に突きつけた。
「俺が清風会に入ることはありません。それは市民への裏切りであり、俺自身の死を意味するからだ。……だが、別の選択肢ならある」
若林は怪訝そうな顔でそのメモを見つめた。
「別の選択肢……?」
「あなたが率いる清風会の若手・中堅議員。そして俺たち無所属。さらには既存会派のやり方に疑問を感じている中間層。それらを結集して、新しい会派を立ち上げるんです」
若林の目が大きく見開かれた。
「な……何をバカなことを!」
「バカなことじゃありません」
晴斗の声には熱がこもっていた。
「清風会の過半数は崩れる。市川議員たちの古い政治は、数の威光を失う。そして俺たちが作った新会派が議会のキャスティングボートを握るんだ。そうすれば、特定の会派の利権ではなく、本当の意味で市民に必要な政策だけを通せる議会ができる」
「戯言だ!」
若林が珍しく感情を露わにして声を荒らげた。周囲のわずかな利用者が驚いてこちらを振り返る。
若林は深呼吸をし、眉間を指で押さえながら掠れた声で言った。
「あなたは政党政治の現実を知らない。俺には親の代から世話になっている地元役員や後援会がある。清風会の看板を捨てて離脱するなど、政治的自殺と同義だ。市川先生を敵に回せば、次の選挙でどんな圧力をかけられるか分かっているのか」
「分かっていますよ。市川議員がどんな手を使うか、俺は身をもって知っていますから」
晴斗は静かに笑った。その笑顔には、四年前の青臭い新人議員の面影はなかった。泥をすすり、圧力を跳ね返し、二期目の土俵に生き残った男の凄みが宿っていた。
「リスクを冒さずに手に入る変革なんて、ただのポーズだ。市川議員の影に隠れて『いつか会派を変える』と言い訳しながら、都合の良い時だけ俺のクリーンさを利用する……そんな生ぬるい話に乗るつもりはありません」
晴斗は若林の目から視線を外さなかった。
「佐伯さんという人に言われました。『どの泥を被る覚悟があるかだけだ』と。……若林さん、あなたにはその覚悟がありますか? 親の看板や会派のぬくもりを捨ててでも、この街を変えるために新しい足を踏み出す覚悟が」
若林は言葉を失っていた。
喉が細かく動く。額にうっすらと汗が滲み出していた。
晴斗が突きつけたのは、単なる政治的な条件交渉ではない。若林圭介という一人の政治家の「覚悟」そのものを問う踏み絵だった。
「……正気じゃない」
長くて重い沈黙の後、若林は低く呟いた。
「あなたと話していると、頭がおかしくなりそうだ」
「お返事は急ぎません」
晴斗はメモを若林の手に握らせた。
「次の定例会が開会するまでに、考えてみてください。清風会の『期待の若手』として市川議員の影で一生を終えるか。それとも、俺たちと共に新しい議会の歴史を作るか」
晴斗はそう言い残すと、深く一礼して展望ロビーを後にした。
エレベーターに乗り込み、扉が閉まる直前、晴斗は振り返った。
夕闇が深まるロビーの窓際で、若林は晴斗から渡されたメモを握りしめたまま、微動だにせず街の明かりを見つめ続けていた。
沼の中に、一歩目を踏み出したのは晴斗だけではなかった。
風は、確実に吹き始めていた。




