第四十九話:孤立の網
「……市川先生の狙いは、中道系の『誠和会』です」
深夜、事務所の会議テーブルに広げられた議会名簿を前に、若林が低い声で言った。疲れの色は隠せないものの、その眼光には鋭い緊張感が宿っている。
「誠和会は四議席。彼らは『市政の中立・安定』を掲げていますが、支持母体には地元の商店街連合や中小建設業者の団体が含まれています。市川先生はそこを突いてきました。来年度の大型開発事業における地元企業の優先発注枠と、南口再開発の予算増額を約束する代わりに、予算案での全面協力を持ちかけています」
「清風会の八議席に誠和会の四議席が合流すれば、十二議席……」
健太が計算しながら顔を曇らせた。
「過半数の十五まで、あと三議席。もし野党系会派のベテラン議員から数人を切り崩されたら、一気に逆転されますね」
「それだけじゃないわ」
美咲が厳しい表情で付け加えた。
「市川議員の手口は巧妙よ。誠和会を味方につけることで、『青嵐の会はただの反対派・危険な異分子』というレッテルを貼り、議会内で完全に孤立させようとしているのよ」
晴斗は腕を組み、静かに思考を巡らせた。
身内の切り崩しに失敗した市川が取った次の一手――それは、利権をパイのように切り分けて他会派へ配分する「密室の連立工作」だった。数で勝てないなら、数の「買い取り」を行う。長年権力の頂点に君臨してきた男ならではの、圧倒的な政治力学だった。
「若林さん」
晴斗は顔を上げた。
「誠和会の代表・谷口議員とは、話をできますか?」
「谷口さんですか……」
若林は少し言葉を詰まらせた。
「谷口さんは六期目のベテランです。市川先生との付き合いも長く、基本的には現実主義者です。『理想だけでは街の経済は回らない』というのが彼の持論で、今回の清風会からの提案にもかなり心が揺れていると聞きます」
「それでも、会いましょう」
晴斗の強い瞳に、迷いはなかった。
「市川議員が差し出している『エサ』が、どれほど危うい空手形であるか。そして、密室の手打ちではなく、透明な議会で本当の地域経済を守る道がどこにあるのかを伝えなければなりません」
翌日の昼下がり、晴斗と若林は市役所近くの古い喫茶店の奥まったテーブル席で、誠和会の代表・谷口と対峙していた。
白髪交じりの髪をきっちりと分けた谷口は、運ばれてきたブレンドコーヒーにゆっくりと砂糖を落としながら、静かに晴斗たちを見つめた。
「木島くん、若林くん。君たちが何のために私を呼び出したかは分かっている」
谷口は穏やかだが、付け入る隙を与えない口調で切り出した。
「市川先生からの打診のことだろう。隠すつもりはないよ。我が『誠和会』は、地元経済の冷え込みを本気で心配している。南口の再開発事業をこれ以上遅らせるわけにはいかないんだ。清風会が予算枠と地元業者への配慮を約束してくれるなら、会派として協力する価値はある」
「谷口先生」
若林が前傾姿勢になって訴えかけた。
「市川先生の約束を信じるのは危険です! 清風会が再び過半数を握れば、そんな約束は反故にされます。私たちは清風会の内部にいたからこそ分かるんです。彼らは必要な時だけ他会派を利用し、使い終われば捨ててきました」
谷口は寂しげな笑みを浮かべ、首を横に振った。
「若林くん、君の言いたいことも分かる。だがね、政治は結果なんだよ。君たちが『青嵐の会』を作って議会を混乱させた結果、本予算の審議は滞り、地元の事業者は『いつ工事が始まるんだ』と悲鳴を上げている。青臭い理念で飯は食えないんだよ」
谷口の言葉は、長年現場の泥をすすってきたベテランならではの重みがあった。
だが、晴斗は静かに、しかし一歩も引かずに谷口の目を見つめ返した。
「谷口先生。商店街や地元の中小企業を守りたいという想いは、私たちも全く同じです」
晴斗はカバンから、一束の資料を取り出してテーブルに置いた。
「これは、私たちが昨日一晩かけて試算した『葉山市地域事業者優先発注・透明化条例』の骨子案です」
谷口が眉をひそめ、資料に目を落とした。
「……透明化条例?」
「はい。市川議員が提案しているのは、特定の親しい業者に優先枠を配分する『口利き型の予算配分』です。それは一時的な毒薬に過ぎず、市川議員への従属を深めるだけです。ですが、この条例が通れば、市長や大物議員の意向に関わらず、すべての公共事業において一定割合以上の地元中小企業への優先発注が『法律』として義務付けられます」
谷口の瞳の奥で、小さな光が走った。資料をめくる指の動きが止まる。
「さらに」
晴斗は言葉を重ねた。
「南口再開発の予算についても、清風会が進めようとしている不透明なコンサルタント費用や巨大外資ゼネコンへの補填金を削れば、浮いた予算で地元商店街のプレミアム商品券発行や店舗改修補助金を即座に捻出できます。密室の約束ではなく、議決された条例と予算として、堂々と市民に胸を張れる形で実現できるんです」
谷口は黙って資料を見つめ続けた。
喫茶店の中に、カチカチと古い時計の針が刻む音だけが響く。
「……君たちは」
谷口は資料から顔を上げ、深い溜め息とともに言った。
「本気で、この条例を『誠和会』との共同提案として提出するつもりかね?」
「ええ」
晴斗は強く頷いた。
「功績はすべて誠和会に譲っても構いません。重要なのは、誰が提案したかではなく、市民と地元の事業者に本当の利益が届くことです。市川議員の『貸し借り』の支配下に入るか。それとも、私たちと共に議会主導の新しい政策を作っていくか……決めるのは谷口先生です」
谷口はコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。
その表情から、先ほどまでの頑なな態度が消えていた。
「……市川先生も、甘く見たものだな。木島くん、君はただの理想家ではないらしい」
谷口は資料を丁寧に折りたたむと、内ポケットに収めた。
「会派に持ち帰って検討する。……だが、期待はしすぎるなよ。政治の風は一瞬で変わる」
谷口はそう言い残すと、勘定を済ませて店を出て行った。
「……感触は、悪くないですね」
若林が安堵の息を漏らした。
「ああ」
晴斗も少し肩の力を抜いた。だが、その直後――
ポケットの中で晴斗のスマホが激しく震えた。健太からの緊急着信だった。
「晴斗さん、大変です!」
健太の悲痛な声が受話器から飛び出してきた。
「議長権限で、明日の定例会の日程が突如繰り上げられました! さらに清風会から、我が『青嵐の会』の不信任・懲罰動議を含めた『議会運営規則の緊急改正案』が電撃提出される動きがあります!」
晴斗と若林は顔を見合わせ、息を呑んだ。
誠和会との交渉を進める水面下で、市川はすでに「議長任限」という最大の権力構造を使って、物理的に晴斗たちを排除する罠を仕掛けていたのだ。
孤立を狙う網は、すでに晴斗たちの頭上高く投げかけられていた。




