三十八話:水面下の攻防
若林の「造反」は小さな事件ではあったが最大会派「清風会」の絶対的な支配に初めて目に見える「ひび」を入れた。
その日の午後、晴斗が物置部屋で委員会の議事録を整理していると控室の扉が遠慮がちにノックされた。
若林だった。
「……木島さん。先ほどはどうも」
彼は気まずそうに入り口に立ったまま言った。
「いやこちらこそ。中へどうぞ。……まあこんな場所ですけど」
晴斗は苦笑いしながらパイプ椅子を勧めた。
若林は狭い部屋を興味深そうに見回した。
「……すごいですね木島さんは」
彼はぽつりと呟いた。
「俺には真似できない。こんな環境でたった一人であのベテランたちと渡り合っているなんて」
「俺は一人じゃありませんよ」
晴斗は壁に貼られた「問題地図」を指さした。無数の市民の声が記されている。
「それに若林さん、あなたも今日から一人じゃありません」
そのまっすぐな言葉に若林ははっとしたように顔を上げた。
その日から二人の奇妙な交流が始まった。
人目を忍ぶようにこの物置部屋で落ち合う。
そこで交わされるのは情報交換だった。
「木島さん知ってますか。来週の建設委員会で再開発の追加予算案が非公式に議題に上がるらしいです」
「本当ですか!?」
若林は最大会派の内部にいるからこそ知り得る水面下の情報を晴斗にもたらした。
それは晴斗にとって干天の慈雨にも等しいものだった。今まで完全に遮断されていた議会の中枢からの情報。
一方、晴斗は若林に市民から寄せられる生の声を共有した。
「この地域ではこういう問題が起きています。次の一般質問で取り上げてみてはどうですか」
彼らは互いに足りないものを補い合う最高のパートナーになりつつあった。
だがその秘密の共闘関係がいつまでも続くはずはなかった。
数日後。
若林が青ざめた顔で晴斗の控室に駆け込んできた。
「……木島さん。バレました」
「何がです?」
「俺があなたと会っていること。……市川先生に呼び出されました」
若林が語った市川とのやり取りは晴斗の想像を絶するものだった。
市川は若林を会派の控室に呼びつけると決して声を荒らげることなく静かに、しかし蛇のような執拗さで彼を追い詰めたという。
「若林くん。君のお父上には私もずいぶん世話になってね」
市川はまず恩を着せた。
「君が当選できたのもお父上が築き上げた後援会のおかげだ。そしてその後援会の主な支援者は誰かね。地元の建設業界の皆さんだ。違うかね?」
「……はい」
「その建設業界の皆さんが今何を一番望んでいるか。君ならわかるな? そうだ。駅前の再開発事業だ。あれが動けばこの葉山の経済は潤う。皆の生活が守られる」
そして市川は本題に入った。
「木島くんはその再開発に反対している。つまり彼は我々建設業界の、そして君の支援者たちの敵だ。そんな男と君が裏でこそこそと会っているという噂を耳にしたんだが……。何か弁明はあるかね?」
それは尋問だった。
友情かそれとも自分の政治生命か。
その究極の選択を市川は若林に突きつけたのだ。
「……俺は何も言えませんでした」
若林は唇を噛み締め俯いた。
「市川先生の言う通りだ、と。支援者の皆さんを裏切ることはできない、と。……そう答えるしかなかった。俺は卑怯者だ」
彼の肩が小さく震えている。
晴斗はかける言葉が見つからなかった。
彼を責めることなどできるはずもなかった。
自分は失うものが何もないから戦える。だが彼には守るべき地盤と支援者がいる。
その痛みを自分は本当の意味では理解していなかった。
「……これで俺たちの関係も終わりです」
若林が絞り出すように言った。
「もうここには来れません。……本当に申し訳ない」
彼は深く深く頭を下げると逃げるように物置部屋を出て行こうとした。
「待ってください若林さん」
晴斗は彼の背中に声をかけた。
「俺はあなたのことを卑怯者だなんてこれっぽっちも思っていません」
若林の足がぴたりと止まる。
「あなたは一度勇気を出してくれた。あの委員会で俺のために声を上げてくれた。俺はそのことを絶対に忘れません」
晴斗は立ち上がった。
「だからもう無理はしないでください。あなたはあなたの場所で戦ってください。俺も俺の場所で戦います。……道は違っても見ている未来は同じだと俺は信じていますから」
その言葉は若林の心に深く深く突き刺さった。
彼は振り返ることなくしばらくその場に立ち尽くしていた。
そして一言だけ呟いた。
「……ありがとう」
その声は涙で濡れていた。
若林は去っていった。
晴斗は再び一人になった。
だが彼の心は不思議と穏やかだった。
仲間は失ったかもしれない。
だが確かにこの澱んだ議会の中に自分と同じ未来を見つめている魂が一つ存在することを知ったからだ。
それはまだ小さな小さな灯火に過ぎない。
だがその灯火がいつかこの議会の闇を照らす大きな炎になる日が来るかもしれない。
晴斗はそのかすかな希望を胸に抱き再びたった一人の戦いに戻っていく。
水面下の攻防はまだ始まったばかりなのだ。




