三十二話:唯一の武器
「……お前がたった一人で戦うための唯一の武器」
佐伯はもったいぶるように一度言葉を切った。
そしてカウンターの奥から一冊の古びた分厚い本を取り出した。
そのくすんだ赤色の表紙には金色の箔押しでこう記されている。
『葉山市議会会議規則』
「……これですか?」
晴斗は拍子抜けした。それは議員に配られるただのルールの本だ。
「ああ。これだ」
佐伯の声は真剣だった。
「いいか坊主。議会という場所はヤクザの組と同じだ。長年かけて作り上げられた親分(議長)と兄弟分(会派)たちの暗黙の掟やしきたりで全てが動いている。新参者のお前が正論や正義感を振りかざしたところで鼻で笑われて終わりだ」
「……」
「だがな、そんな彼らでも絶対に逆らえないものが一つだけある。それがこの『規則』だ。これはヤクザの掟ではなく法律(地方自治法)に基づいて定められたこの議会のたった一つの公式なルールブックだ」
佐伯はその本のページをぱらぱらとめた。
「奴らはこのルールブックを自分たちに都合のいいように解釈し運用している。だが条文そのものを捻じ曲げることはできん。お前がやるべきことはこのルールブックを一言一句隅から隅まで暗記するほど読み込むことだ。そして奴らが張り巡らせた暗黙の掟の隙間を突く武器としてこれを使うんだ」
彼はあるページを指さした。
「例えばこれ。『第五十六条 発言』。発言は全て議長の許可を得なければならないとある。だから議長に嫌われればお前は永遠に発言の機会を与えられない。だがな……」
彼は別のページを指さす。
「こっちを見ろ。『第七十五条 緊急質問』。緊急かつ市民の利益に関わる重大な案件については議員は議長の許可がなくとも発言を求めることができる。もちろん最終的にそれを認めるかどうかは議会全体の判断だがな。こういう『抜け道』がこの中にはいくつも隠されているんだ」
会議規則。
それは晴斗にとってただの退屈な規則集ではなかった。
孤立無援の自分が巨大な敵と渡り合うための唯一の武器庫。そして難解な暗号で書かれた宝の地図。
「……わかりました。読んでみます」
晴斗はその重い本をまるで聖書のように両手で受け取った。
数週間後。
初めての定例議会が開かれた。
晴斗は議員席の一番隅。一番末席に座っていた。
周りのベテラン議員たちは談笑したりあくびをしたりしている。その緊張感のない空気は傍聴席から見ていた時と何も変わらなかった。
だが今の自分はあの時の無力な傍聴人ではない。
議事は淡々と進んでいく。
そしていよいよ議員が市政について市長や市の幹部に直接質問することができる「一般質問」の時間が始まった。
晴斗がこの日のためにずっと準備を重ねてきた最初の戦いの舞台だ。
彼は事前に議会事務局を通して質問の順番を申し込んでいた。
だが議長が読み上げた質問者のリストに晴斗の名前はなかった。
「……議長!」
晴斗は思わず立ち上がって声を上げた。
その瞬間、議場にいた全ての議員の視線が一斉に晴斗に突き刺さった。
まるで異物を見るかのような冷たい視線。
「……木島議員。発言は許可を得てから願いたい」
議長――市川と同じ会派の古参議員だ――が不快感をあからさまに声に滲ませて言った。
「申し訳ありません。ですが議長。私も一般質問の通告を出しております。なぜ私の名前が呼ばれないのでしょうか」
「ああ君かね」
議長はわざとらしく手元の書類に目を落とした。
「君は会派に所属していないだろう。議会の慣例として質問の時間は各会派に配分されることになっている。無所属の君に割く時間は残念ながら今議会では用意できなかった」
慣例。
またその言葉だ。会議規則にはどこにも書かれていない彼らだけの都合のいいルール。
だが晴斗はもう怯まなかった。
彼は佐伯と何度もこの場面をシミュレーションしていた。
「議長お待ちください」
晴斗の声は静かだったが議場の隅々までよく通った。
「私が熟読いたしましたこの葉山市議会会議規則によれば『議員は誰でも市長に対し質問することができる』と定められております。そこには会派に所属しているかどうかの区別は一切ございません」
彼は懐からあの赤黒い会議規則の本を取り出した。
「『慣例』がこの議会の最高法規である『規則』を上回るというのであればその法的根拠をお示しいただきたい。示せないのであれば議長。あなたは一議員の正当な権利を不当に侵害していることになります」
議場がざわついた。
まさか一番若い新人の議員が議会の「慣例」に真っ向から盾突いてくるとは誰も想像していなかったのだ。
市川幸太郎が苦々しい顔でこちらを睨みつけている。
議長は一瞬言葉に詰まった。
顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「……生意気な」
小さな声でそう呟くのが聞こえた。
だが彼は反論することができなかった。
晴斗の言うことはルール上、一点の曇りもなく正しいからだ。
「……よろしい。ならば木島議員。君の質問はリストの一番最後に加えよう。ただし持ち時間は他の議員の半分。十五分だ。それでよろしいな?」
それは嫌がらせだった。
だが晴斗にとっては大きな大きな一歩だった。
「はい。ありがとうございます議長」
晴斗はにこりともせず深く頭を下げて席に座った。
背中に突き刺さるような何人もの敵意の視線を感じながら。
彼は勝ったのだ。
最初の小さな、しかし決定的な戦いに。
佐伯が授けてくれた唯一の武器。その威力を身をもって証明した。
だがそれは同時にこの議会にいる全てのベテラン議員たちを敵に回したことを意味していた。
晴斗の本当の孤独な戦いが今始まった。
彼の初めての一般質問の順番が刻一刻と近づいてくる。




