第三十一話:議員バッジと物置部屋
当選の狂騒から一週間。
葉山市役所の最上階にある市議会事務局の一室で晴斗は人生で初めて議員バッジというものをその手にした。
金色の小さな金属片。中央には葉山市の市章が刻まれている。
「木島先生、ご当選誠におめでとうございます」
事務局の職員が丁寧すぎるほどの慇懃な態度で晴斗に頭を下げる。
数ヶ月前まで自分が臨時職員として働いていた同じ建物の中。だが今や自分は「先生」と呼ばれる特別な存在になった。
その小さなバッジがひどく重く感じられた。
これはただの飾りではない。千六百人を超える市民の想い。その信託の証なのだ。
晴斗は深呼吸を一つするとそのバッジをスーツの襟に慎重に取り付けた。
「先生の控室ですがこちらにご用意しております」
職員に案内され晴斗は議員たちが執務を行う控室エリアへと足を踏み入れた。
重厚な木の扉がいくつも並んでいる。扉には「清風会」「市民クラブ」といった会派の名前が書かれたプレートが掲げられていた。
市川幸太郎が所属する最大会派「清風会」の控室の前を通り過ぎる。中からはベテラン議員たちの談笑する声が漏れ聞こえてきた。
だが職員が晴斗を案内したのはそうした立派な部屋ではなかった。
廊下の一番奥。薄暗い突き当たり。
そこにはプレートもかかっていない小さな扉があった。
「……こちらが先生のお部屋になります」
職員は少しだけ申し訳なさそうな顔で言った。
扉を開けて晴斗は絶句した。
そこは部屋というより物置だった。
四畳半ほどの窓もない狭い空間。古いパイプ椅子と錆びついたスチールデスクが一つずつぽつんと置かれているだけ。壁際には使われなくなった備品や段ボール箱が無造作に積み上げられている。
かび臭い澱んだ空気が鼻をついた。
「……ここは一体」
「申し訳ございません。現在空いている控室がこちらしかなく……」
職員は歯切れ悪くそう説明した。
「他の新人議員の方々はどうしているんですか?」
「皆様、既存の会派に所属されましたので。それぞれの会派の控室を共同でお使いになられております」
その言葉で晴斗は全てを理解した。
これは偶然ではない。
意図的に仕組まれた最初の「洗礼」なのだ。
葉山市議会には暗黙のルールがあった。
当選した議員は必ずどこかの「会派」に所属しなければならない。
会派とは同じような考えを持つ議員たちが作る院内グループのことだ。議会運営のあらゆる物事はこの会派単位で動かされている。
そしてどの会派にも属さないたった一人の「無所属議員」は議会の中で存在しないのも同然の扱いを受ける。
「……わかりました。ありがとうございます」
晴斗は怒りを寸でのところで飲み込んだ。
ここで事務局の職員に文句を言っても何も変わらない。彼らもまた議会の力関係という見えないルールの中で動いているに過ぎないのだ。
職員が去った後、晴斗は一人物置部屋の硬いパイプ椅子に腰を下ろした。
胸につけた議員バッジがやけに重い。
選挙には勝った。
だが本当の戦いはまだ始まってもいなかったのだ。
ここは敵の本拠地のど真ん中。そして自分は武器も持たずたった一人でその城に乗り込んできてしまった。
その日の午後、晴斗は佐伯のバーを訪れた。
物置部屋の一件を話すと佐伯は予想通り鼻で笑った。
「……当然の報いだ。歓迎の手荒い挨拶というやつだ」
「どうすればいいんですか。どこかの会派に入るべきなんでしょうか」
「選択肢は三つある」
佐伯は指を立てた。
「一つ。最大の敵である市川の会派『清風会』に頭を下げて入れてもらう。そうすれば立派な控室とそれなりの発言機会は与えられるだろう。だがお前は市川の忠実な犬になるしかない。お前が訴えてきた再開発の見直しなど口が裂けても言えなくなる」
「……それは絶対に嫌です」
「二つ目。少数会派に入れてもらう。だが今の葉山市議会にお前のような若造を喜んで受け入れるような気骨のある会派は存在しない。せいぜい議会の隅で野次を飛ばすだけの万年野党になるのが関の山だ」
「……」
「そして三つ目だ」
佐伯は晴斗の目をまっすぐに見据えた。
「どの会派にも属さずたった一人で戦う。物置部屋に押し込められ発言の機会も情報も与えられない。議会の中では徹底的に無視され孤立する。いばらの道だ。だが……」
彼はグラスにウイスキーを注いだ。
「そのいばらの道を進む覚悟がお前にはあるか?」
その問いは晴斗の魂の核心を突いていた。
何のために自分はここまで来たのか。
権力者に媚びへつらうためか?
安全な場所で不平不満を言うためか?
違う。
晴斗は胸のバッジを強く握りしめた。
このバッジに自分の一票を託してくれた千六百人の顔を思い浮かべた。
彼らが自分に期待したのは既存の枠組みに収まることではないはずだ。
「……やります」
晴斗の声は静かだったがその響きには一片の迷いもなかった。
「俺は一人で戦います。どんな嫌がらせをされようとも」
「よかろう」
佐伯は満足そうに頷いた。
「ならば教えてやる。そんな孤立無援のお前が議会という名の村社会で生き残りそして戦うための唯一の武器をな」
その武器とは一体何なのか。
晴斗は固唾を飲んで佐伯の次の言葉を待った。
彼の孤独でそして壮絶な議員としての一期目四年間の戦いが今この薄暗いバーカウンターから始まろうとしていた。




