三十話:静かなる投票日
選挙戦最終日。
晴斗の喉は奇跡的に少しだけ回復していた。まだかすれてはいるがなんとか言葉を発することはできる。
だがその日の晴斗はもう声を張り上げることはなかった。
選挙カーは市内をゆっくりと静かに流した。
ウグイス嬢の美咲も名前の連呼はしない。
「木島晴斗、木島晴斗です。皆様の貴重な一票をどうか未来のためにお使いください。私たちも共に考え悩みこの街の未来を作ってまいります」
語りかけるような穏やかな声。
晴斗も選挙カーの上からただ道行く人々に深く頭を下げ続けた。
それは異様な光景だった。
他の候補者たちの選挙カーが最後の追い込みとばかりにけたたましく名前を連呼し音楽を流しながら走り去っていく。その喧騒の中で晴斗たちの静かな選挙カーはまるで嵐の中の凪のように際立って見えた。
午後八時。
選挙運動終了の時刻。
事務所の前で選挙カーを降りた晴斗は集まってくれた仲間たち一人ひとりの手を取りかすれた声で礼を言った。
「……ありがとう。本当にありがとう」
もうやるべきことは全てやった。
悔いはなかった。
長かったようでまりにも短かった七日間。
その激しい嵐のような日々が嘘のようにぴたりと終わった。
翌、投票日。
葉山の街は昨日までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
公職選挙法により投票日当日の選挙運動は一切禁じられている。候補者もその仲間たちもただ天命を待つことしかできない。
晴斗の事務所もがらんとしていた。
いるのは晴斗と結衣、佐伯そして数人の中心メンバーだけだ。
誰もが口数少なく時計の針がゆっくりと進むのを見つめている。
テレビからは投票率の中間速報が淡々と流れていた。
「……午後二時現在、葉山市の投票率は二十五・三パーセント。前回の選挙をわずかに下回っております」
低い投票率。
それは組織票を持つ現職に絶対的に有利な状況を意味する。
事務所の空気がさらに重くなった。
「……気にするな」
沈黙を破ったのは佐伯だった。
「いつものことだ。問題は今まで選挙に行かなかった層がどれだけお前のために重い腰を上げたかだ」
だがその佐伯の顔にもいつもの余裕はなかった。
午後八時。投票締め切り。
その瞬間、事務所に集まっていた全員の肩がこわばった。
もう賽は投げられたのだ。
開票が始まったのは午後九時からだった。
事務所に設置されたテレビが市の体育館に設けられた開票所の様子を映し出す。
白い手袋をした職員たちが投票箱から雪崩のように投票用紙をぶちまけそれを機械的に候補者ごとに仕分けていく。
一枚一枚の白い紙切れ。
その無機質な紙の束がこれから自分たちの運命を決める。
最初は現職のベテラン議員たちの名前が圧倒的な勢いで票を伸ばしていった。
市川幸太郎の票の山は見る見るうちに他の候補者を圧倒する巨大な壁となっていく。
「……木島、開票率10パーセントで二百三十票!」
健太が速報サイトの数字を震える声で読み上げた。
絶望的な数字だった。
このペースでは当選ラインの千六百票には到底届かない。
「……まあこんなものか」
誰かが力なく呟いた。
やはり奇跡は起きなかったのか。
晴斗はただ唇を噛み締め画面を凝視していた。
だがその時だった。
開票所の中継映像を食い入るように見ていた佐伯が低い声で言った。
「……いやまだだ」
「え?」
「よく見ろ。木島の票が集まっているのは特定の投票所の箱からだ。駅の南側、新興住宅地……俺たちが徹底的に回った場所だ」
その言葉通り開票が進むにつれて状況はわずかに、しかし確実に変化し始めた。
今まで選挙に行ったことのなかった若い世代が多く住む地域の投票箱が開けられるたび晴斗の票が爆発的に伸びていくのだ。
「木島、開票率50パーセント! 千三百票! 当選ラインまであと少し!」
健太の声が上ずる。
事務所の空気が一変した。
いけるかもしれない。
その信じがたい希望が全員の胸に灯った。
開票率九十パーセント。
晴斗の票は千六百を超えた。
だがまだ安心はできない。
最後の一議席。
その最後の椅子を晴斗ともう一人の候補者がわずか数十票差で争う大接戦となっていた。
その相手の名は。
――相馬圭祐。
市川が放ったあの「刺客」だった。
票割りは最後の最後まで悪魔のように晴斗の前に立ちはだかっていた。
午後十一時半。
全ての票が開かれた。
テレビの画面に最後の当選確実のテロップが映し出される。
そこに書かれていた名前は。
**――木島 晴斗**
「う……うおおおおおおおおっ!!」
健太が叫んだ。
その叫びを皮切りに事務所は歓喜の爆発に包まれた。
抱き合って泣き崩れる者。飛び上がってガッツポーズをする者。
結衣も美咲も田所も皆泣きながら笑っていた。
晴斗はその場で崩れるように椅子に座り込んだ。
腰が抜けてしまったのだ。
勝った。
あの巨大な壁に勝ったのだ。
まだ実感が湧かなかった。ただ熱いものが胸の奥からこみ上げてくる。
佐伯が晴斗の肩をぽんと叩いた。
その顔にはいつもの皮肉な笑みはない。
ただ静かな満足そうな表情があった。
「……おめでとう坊主」
彼は短くそう言った。
「だがな勘違いするな。これがゴールじゃない。地獄の入り口だ」
その言葉の意味をこの時の晴斗はまだ本当の意味では理解していなかった。
彼はただ仲間たちの歓喜の輪の中でこの奇跡のような勝利の味を噛み締めていた。
青臭い嵐は確かにこの街に新しい風を吹かせたのだ。
その風がこれからどんな運命を彼にもたらすのかも知らずに。
第三部、了。




