第二十九話:マイクを置いた演説
選挙戦六日目。最終日の前日。
晴斗たちの体はもう悲鳴を上げていた。
連日の睡眠不足と緊張。そして止むことのない嫌がらせ。事務所の電話には無言電話や罵声を浴びせる電話がひっきりなしにかかってくるようになっていた。ボランティアたちはその対応にも疲弊していた。
特に晴斗の消耗は激しかった。
彼の喉は完全につぶれていた。声はもはやまともな言葉にならないかすれた音しか出ない。それでも彼は選挙カーの上で身振り手振りを交え必死に何かを伝えようとし続けた。
その姿は痛々しく鬼気迫るものがあった。
「晴斗……もうやめなさい。喋らないで」
隣に立つ結衣が何度もマイクを取り上げようとするが晴斗はその手を振り払う。
「……まだだ。まだ伝えたいことが……ある」
ヒュー、ヒューと喘息のような声で彼は言った。
その日の夕方。
選挙カーは最後の街頭演説の場所に到着した。
それは全ての始まりの場所。結衣の店がある「あさひ通り商店街」の寂れたアーケードの入り口だった。
集まった聴衆は今までで一番多かった。
晴斗たちの活動をずっと見守ってきた商店街の店主たち。噂を聞きつけて集まった近隣の住民たち。その数は百人を超えていた。
その中には市川幸太郎の姿もあった。
彼は聴衆の後ろの方で腕を組み値踏みするような冷たい目つきで演説台の上に立つ晴斗を見ていた。まるで最後の見届けに来たというように。
晴斗は演説台の前に立ちマイクを握った。
だが何度息を吸い込んでも声が出ない。
「あ……う……」
出てくるのは意味のないかすれた音だけ。
聴衆がざわめき始める。
「どうしたんだ?」
「声が出ないのか……」
隣で結衣が泣きそうな顔で晴斗を見ている。
(……ここまでなのか)
一番大切な最後の場所で。
一番伝えたい想いを自分の声で届けることができない。
無力感と悔しさがこみ上げてくる。
その時だった。
晴斗はおもむろに握りしめていたマイクを演説台の上にことりと置いた。
そしてマイクを通さず自分の生の声を振り絞った。
「……み、なさん……」
かろうじて聞き取れる程度の小さな小さな声。
だがその声に聴衆は水を打ったように静まり返った。
誰もが固唾を飲んで彼の次の言葉を待っている。
晴斗は深く頭を下げた。
何秒も何十秒も。
ただひたすらに頭を下げ続けた。
そしてゆっくりと顔を上げると彼は自分の胸を指さした。
次に聴衆一人ひとりの顔をゆっくりと指さした。
そしてこの寂れた商店街を。葉山の街全体を指さした。
言葉はなかった。
だがそこにいた誰もが彼の想いを理解した。
(私の心は皆さんの心とこの街と共にあります)
彼のつぶれた喉と必死の眼差しが何千、何万の言葉よりも雄弁にその想いを伝えていた。
それはもはや演説ではなかった。
声という最大の武器を失った一人の人間が全身全霊で人々の心に語りかける魂の対話だった。
聴衆の中からすすり泣く声が聞こえ始めた。
最初に拍手をしたのは八百屋の店主だった。
その拍手は一人また一人と伝染していく。
やがてそれは商店街のアーケードに割れんばかりに響き渡る大きな大きな拍手の渦となった。
遠くで見ていた市川幸太郎の顔から初めて余裕の笑みが消えた。
彼は唇を噛み締めると苦々しい表情でその場を立ち去った。
彼は悟ったのだ。
自分が決して持ち得ない力。
計算や組織力では決してだどり着けない人の心の深淵。
その恐るべき力を目の前の声も出ないみすぼらしい若者が手に入れてしまったことを。
拍手の渦の中、晴斗は何度も何度も頭を下げ続けた。
隣で結衣も健太も仲間たちも皆泣いていた。
それは勝利を確信した涙ではなかった。
ただひたむきに愚直に戦い抜いてきた彼らの想いが確かにこの街の人々に届いた。その確かな手応えが彼らの心を激しく揺さぶっていたのだ。
選挙戦残り一日。
最後の夜が静かに更けていく。
結果はまだ誰にもわからない。
だがこの日のこの光景をそこにいた誰もが生涯忘れることはないだろう。
政治とは言葉だけではない。
想いは声を失っても必ず伝わるのだということを。




