第二十八話:ガラス片の警告
選挙戦三日目、四日目。
晴斗たちの戦いは確立されたルーティンとなっていた。
早朝ボランティアたちがその日の活動計画を確認しそれぞれの持ち場へ散っていく。晴斗は選挙カーに乗り込み午前中は住宅街を、午後は商業地域を中心に遊説と演説を繰り返す。日が暮れると事務所に戻りその日の反省と翌日の戦略を練る。
疲労は確実に全員の体に蓄積していた。
睡眠不足で目の下に隈を作った者。声を出しすぎて喉を痛める者。それでも誰も弱音は吐かなかった。事務所の壁に貼られた葉山市の白地図。自分たちが遊説した地域をマーカーで塗りつぶしていく。その日に日に色づいていく地図が彼らの唯一の支えだった。
手応えはあった。
日に日に演説に足を止めてくれる人の数は増え「頑張れよ」と声をかけてくれる人も目に見えて多くなった。
以前、現場監督の男が届けてくれた寄付を皮切りに事務所には匿名の市民からの少額のカンパがぽつぽつと届くようにもなっていた。「これで温かいお茶でも飲んでください」というメモが添えられて。
「このままいけば……もしかしたら本当に」
誰もがその言葉を口にはしなかったが心のどこかで淡い期待を抱き始めていた。
奇跡は起こるかもしれない。
だが選挙戦とはこちらのペースで進むことを決して許してはくれない非情なゲームだった。
五日目の朝。
事務所の鍵を開けようとした結衣が悲鳴を上げた。
「……きゃあ!」
「どうした結衣!」
一番乗りで事務所に来ていた晴斗が慌てて駆け寄る。
見て息を呑んだ。
事務所の分厚いガラスの扉が粉々に割られていたのだ。
足元には無数のガラスの破片が朝日を浴びてきらきらと不気味に光っている。
そして扉には一枚の紙がナイフで突き刺すように突き立てられていた。
そこには赤いマジックで殴り書きのような乱暴な文字が書かれていた。
『調子に乗るな、ガキが。消えろ』
血の気が引いた。
これはもう選挙妨害というレベルではない。
明確な脅迫。暴力による威嚇だ。
「……警察にすぐに!」
晴斗が震える手で携帯を取り出そうとしたその時だった。
「待て」
背後から低い声がした。
いつの間にか来ていた佐伯が冷静な目で惨状を見つめていた。
「警察を呼んでも無駄だ。指紋一つ残ってはいまい。犯人が見つかる可能性はゼロだ」
「で、でもこのままじゃ……!」
「これは警告だ」
佐伯はナイフに突き立てられた紙を指先でつまむようにそっと引き抜いた。
「ポスター剥がし、SNSでの誹謗中傷。それでも俺たちが止まらないとわかったから相手は次のステージに駒を進めてきた。……物理的な恐怖を見せてきたんだ」
その言葉通り出勤してきたボランティアたちは割られたガラスの扉を見て一様に顔を青ざめさせた。特に主婦の美咲は恐怖で体が震えている。
「……こわい。こんなことまでするなんて……」
「もし私たちが事務所にいる時にこんなことが起きたら……」
事務所の空気は一瞬で恐怖と疑心暗鬼に支配された。
誰かが自分たちを憎んでいる。その事実が重くのしかかってくる。
「……今日の活動は中止にしましょう」
美咲がか細い声で言った。
「危ないわ。これ以上関わるのは……」
その言葉に何人かがこくりと頷いた。
無理もなかった。彼らは正義感で集まったごく普通の市民だ。こんな剥き出しの悪意に耐性があるはずもない。
築き上げてきたチームが恐怖によって内側から崩壊しようとしていた。
晴斗は唇を強く噛みしめた。
どうすればいい。ここで仲間たちに「それでも戦おう」と言うべきなのか。
彼らを危険に晒してまで自分の理想を追い求めるべきなのか。
答えが出なかった。
その重苦しい沈黙を破ったのは結衣だった。
彼女は何も言わず事務所の隅からほうきとちりとりを持ってきた。
そしておびえる仲間たちの前で黙々と足元のガラスの破片を掃き始めたのだ。
「……何やってるのよ」
結衣は顔も上げずに言った。
「こんなことで足止めてる場合じゃないでしょ。選挙はあと三日しかないんだよ」
その声は震えていなかった。
「怖いよ。私も怖い。でもここで私たちがやめたらあいつらの思う壺じゃない。こんな卑怯なやり方がこの街でまかり通るって私たちが認めることになるんだよ」
彼女は顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。だがその奥には恐怖よりもずっと強い怒りの炎が燃えていた。
「私は絶対に負けたくない。こんな奴らに私たちの街をぐちゃぐちゃにされてたまるもんか!」
その言葉は魔法のようだった。
恐怖で凍りついていた仲間たちの心がゆっくりと溶けていく。
そうだ。怖い。でもそれ以上に悔しい。許せない。
健太が黙って結衣からほうきを受け取った。
田所がゴミ袋を広げた。
美咲も涙を拭うと小さなガラス片を一つ一つ拾い始めた。
誰ももう何も言わなかった。
ただ黙々と目の前の惨状を片付けていく。
晴斗はその光景をただ見つめていた。
自分はなんて強い仲間たちに支えられているのだろう。
自分が彼らを引っ張っているのではない。彼らが自分の折れかけた心を繋ぎとめてくれているのだ。
一時間後。
事務所の床は元通りにきれいになった。
割れたガラス扉には内側から大きなベニヤ板が応急処置で打ち付けられている。
その傷跡だらけの事務所で晴斗は仲間たちの前に深く深く頭を下げた。
「……ありがとう。行こう」
彼は短い言葉でそう言った。
「俺たちの戦う場所はここじゃない。街だ」
その日選挙カーから響き渡る晴斗の声はいつもより少しだけかすれていた。
だがその声には今まで以上の覚悟とそして怒りがこもっていた。
ガラス片の警告は彼らの心を折ることはできなかった。
むしろ彼らをより強く一つに結びつけたのだ。
選挙戦残り二日。
最終決戦の火蓋が切って落とされた。




