第二十七話:名前の連呼、声の枯れるまで
深夜から明け方にかけての「夜間奇襲作戦」は功を奏した。
内部告発者からもたらされた情報を元に監視の目をかいくぐり剥がされたポスターを全て貼り直すことに成功したのだ。選挙戦二日目の朝、葉山市内の掲示板には再び少しだけ緊張した面持ちの晴斗の顔が他の候補者たちと並んでそこにあった。
「やった……! やりましたね!」
徹夜明けの事務所で健太たちが興奮気味に喜びの声を上げる。
だがその表情には皆隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。ポスター貼りのため夜通し市内を走り回ったのだ。無理もない。
「……喜ぶのはまだ早い」
仮眠室から出てきた佐伯が冷や水を浴びせた。
「選挙はまだ六日も残っている。今日が本番だ」
その言葉通り二日目からの戦いは体力と精神力を極限まですり減らす消耗戦の様相を呈してきた。
晴斗は朝八時から夜八時まで。法律で定められた十二時間、選挙カーに乗り市内をくまなく回り続けた。
「こちらは木島晴斗、木島晴斗でございます! 皆様の暮らしをより良くしたい! その想いで立ち上がりました木島晴斗でございます!」
ウグイス嬢の美咲が明るい声で候補者の名前を連呼する。
晴斗も交差点で車が止まるたび身を乗り出して手を振り続けた。
「木島晴斗です! よろしくお願いいたします!」
最初は新鮮だった。
だが同じことを何百回、何千回と繰り返すうちに晴斗の心は少しずつ麻痺していくようだった。
(……俺は何をやっているんだろう)
車窓から見える人々の顔はほとんどが無関心だ。うるさそうに眉をひそめる人、見て見ぬふりをする人。好意的に手を振り返してくれる人はほんの一握りしかいない。
夕方商店街で街頭演説を行った。
政策を自分の言葉で熱く語る。足を止めてくれる人は昨日よりも少しだけ増えた気がした。
だが演説を終え再び選挙カーに乗り込むとまたあの延々と続く「名前の連呼」が始まる。
「……佐伯さん」
その夜事務所に戻った晴斗はたまらず佐伯に尋ねた。喉はガラガラに枯れ声もかすれていた。
「どうしてこんな……名前を連呼し続けなければならないんですか。政策をもっと訴えるべきじゃないんですか。これじゃただの騒音公害だと思われても仕方ない」
それは晴斗がずっと抱いていた疑問だった。そして多くの有権者が選挙のたびに感じる素朴な違和感でもあった。
佐伯は黙って晴斗に龍角散ののど飴と一本のミネラルウォーターを差し出した。
「……お前がスーパーに醤油を買いに行ったとする」
彼はぽつりと例え話を始めた。
「棚には何十種類もの醤油が並んでいる。味の違いなんてよくわからん。そんな時お前はどの醤油を手に取る?」
「え……? それは……テレビのコマーシャルでよく見るやつ、とか……」
「そうだ。それと全く同じだ」
佐伯の声は静かだったがその言葉は残酷な真実を突きつけていた。
「有権者の九割はなお前が熱心に訴えている政策の詳細なんてほとんど覚えていない。彼らは投票日、投票所の記載台に立って初めて『さて誰の名前を書くか』と考える。その時彼らの頭の中に一番強く耳に残っている名前。一番見慣れた顔。それを無意識に投票用紙に書くんだ」
「……」
「それがこの国の民主主義の紛れもない現実だ。だから俺たちは有権者の記憶にお前の名前と顔を刷り込み続けなければならない。たとえうるさいと思われようが迷惑がられようがやるしかない。それが今の制度で新人が勝つための唯一にして最善の方法なんだ」
晴斗は何も言い返せなかった。
自分が信じてきた政策本位の理想の選挙。
だが現実はもっとどうしようもなく単純でそして非情だった。
自分たちは醤油のラベルと同じなのだ。
その事実は晴斗の心を深く抉った。
自分の理念や政策は無意味だというのか。
ただ名前を覚えてもらうことだけが目的なのか。
「……違う」
沈黙を破ったのはウグイス嬢を務める美咲だった。彼女も一日中声を張り上げ疲労困憊のはずだった。
「佐伯さんの言うこともわかります。でも私は違うと思います」
彼女はまっすぐに晴斗を見た。
「私たちが晴斗さんの名前と一緒に何を訴えてきたか。街灯のこと、公園のこと、バスのこと……。そういう具体的な言葉を聞いてくれている人は必ずいます。醤油のラベルにだって『丸大豆使用』とか『減塩』とかちゃんと書いてあるじゃないですか。それを見て選んでくれる人は絶対にいます」
「美咲さん……」
「だから晴斗さん。あなたはあなたの信じることを語り続けてください」
彼女は力強く言った。
「名前を連呼するのは私たちの仕事です。あなたに興味を持ってもらうためのきっかけ作りです。その先人々の心を動かすのはあなたのその『言葉』なんですから」
その言葉に晴斗は救われた気がした。
そうだ。役割分担なのだ。
名前の連呼は人々の心の扉をノックする作業。そしてその扉を開けてくれた人に自分の想いを届けるのが自分の仕事だ。
無意味なことなど何一つない。
「……ありがとう美咲さん」
晴斗はかすれた声で礼を言った。
そして龍角散の飴を一粒口に放り込んだ。
スーッとする甘さが痛んだ喉にそしてささくれ立った心に優しく沁みていく。
佐伯はそのやりとりを黙って見ていた。
そして誰にも気づかれないようにほんの少しだけ口元を緩めた。
選挙戦二日目の夜が更けていく。
晴斗の喉はもう限界に近かった。
だが彼の心の中の「声」はまだ決して枯れてはいなかった。




