第二十六話:剥がされるポスター
告示日の午前中はまさに時間との戦いだった。
晴斗が選挙カーで市内を回り演説を繰り返している間、ポスター貼りに向かったボランティアたちはそれぞれの持ち場で奮闘していた。
掲示板は市内全域に三百箇所以上。一枚一枚手作業で貼っていくしかない。
「急げ! 次の掲示板はあの角を曲がったところだ!」
健太は数人の大学生ボランティアを率い自転車で市内を駆け巡っていた。地図と画鋲とポスターの束。装備はそれだけだ。
掲示板にはすでに他の候補者のポスターがずらりと貼られている。
市川幸太郎。相馬圭祐。そして見たこともない十数人の候補者たち。
定められた番号「18番」の区画に晴斗のポスターをまっすぐに丁寧に貼り付ける。
「よし、次!」
だが昼過ぎ。
事務所の電話がけたたましく鳴った。電話番をしていた田所が険しい顔で受話器を取る。
「……はい、木島事務所です。……えっ? ポスターが? ……わかりました、すぐに確認します!」
ポスター班の一人からだった。
「どうしたんですか田所さん!」
晴斗がちょうど昼食休憩で事務所に戻ってきたタイミングだった。
「晴斗くん……。ひどい話だ。我々が貼ったポスターが何者かに剥がされているらしい」
「……!」
すぐに健太たちも事務所に戻ってきた。
彼らの報告は田所の言葉を裏付けるものだった。
「俺たちが貼って三十分も経たないうちにもう無くなってました。それも一枚や二枚じゃない。特定の地域の掲示板で集中的にやられてるみたいです」
健太が悔しそうに拳を握りしめる。
「しかも晴斗さんのポスターだけピンポイントで狙われてるんです。他の候補者のポスターは手つかずのままで……」
選挙ポスターを正当な理由なく剥がしたり破ったりする行為は公職選挙法で厳しく罰せられる悪質な選挙妨害だ。
「警察には……?」
「通報はしました。でも『現行犯じゃないと捕まえるのは難しい』って……。パトロールは強化してくれるそうですが」
誰の仕業か。
考えるまでもない。
自分たちの陣営にこんな陰湿な嫌がらせをする人間がいるとすればそれは……。
「市川陣営の仕業でしょうか」
美咲がおそるおそる口にした。
「断定はできん」と佐伯は言った。彼は事務所の隅で腕を組んだまま静かに話を聞いていた。
「だがこういう汚い手を使うのはいつだって選挙で負けることを恐れている弱い犬のやることだ。市川が我々のことをそれだけ脅威に感じ始めたという証拠でもある」
「でもこのままじゃ……!」
ポスターは候補者の「顔」だ。
それがなければ有権者はそもそも木島晴斗という候補者がいることすら認識できない。
これはボディブローのようにじわじわと効いてくる極めて悪質な攻撃だった。
「予備のポスターはまだあります! 俺、もう一度貼ってきます!」
健太が息巻いて立ち上がろうとする。
「待て」
佐伯がそれを制した。
「また同じことの繰り返しだ。相手は俺たちが貼るのをどこかで見ている。イタチごっこになるだけだ」
「じゃあどうするんですか! 指をくわえて見てろって言うんですか!」
その時だった。
事務所の扉ががらりと開いた。
立っていたのは先日晴斗に寄付をしてくれたあの作業着姿の建設会社の現場監督だった。
彼は少し気まずそうに事務所の中を見回した。
「……よう。ひでえことされてるらしいな」
「……あなたは」
「噂で聞いた。うちの会社の若い奴らが何人か市川先生の応援団に駆り出されてポスター剥がしを手伝わされてるってな……。本当に情けねえ」
男の言葉に事務所の全員が息を呑んだ。やはり市川陣営の仕業だったのだ。
「俺は板挟みの身だ。会社に逆らうことはできねえ。だがな……」
彼はポケットから数枚のメモ用紙を取り出した。
「これは奴らが見張りをしている掲示板のリストだ。この時間はここにいるとかそういう情報だ。……俺にできるのはここまでだ。あとはあんたたちで何とかしてくれ」
男はそれだけ言うと晴斗の返事も待たずに風のように去っていった。
残されたメモ用紙。
それは敵の陣地のど真ん中から届けられた秘密の地図だった。
佐伯はそのメモを手に取るとにやりと口の端を上げた。
「……面白い。敵の中にも義理と人情を忘れていない奴がいたというわけか」
彼は事務所の大きな地図の前に立つとメモの情報を次々と書き込んでいく。
「いいかお前ら。これより夜間奇襲作戦を開始する」
佐伯の目のかつての「汚れ仕事専門の秘書」の鋭い光を取り戻していた。
「相手の監視が手薄になる深夜から明け方にかけて。二人一組で全てのポスターを貼り直す。これはもうただのポスター貼りじゃない。情報戦だ」
絶望的な状況の中に一条の光が差し込んだ。
それは敵の内部からの声なき声援だった。
晴斗はメモ用紙を強く握りしめた。
自分たちは決して正々堂々と戦うことだけが正しいとは限らない。
時にはこうした裏の情報も武器にしなければならない。
選挙とはそういう清濁併せ呑む総力戦なのだ。
「皆さん準備はいいですか!」
晴斗が仲間たちの顔を見回して叫んだ。
「俺たちの反撃を開始します!」
「「「おー!!」」」
事務所の士気は再び燃え上がっていた。
選挙戦初日の夜。
葉山の街の暗闇の中で彼らの静かでそして熾烈な戦いが始まろうとしていた。




