第二十三話:雨の中の旗
SNSの炎は衰える気配を見せなかった。
むしろ根も葉もない噂は尾ひれがついてさらに酷いものになりまとめサイトや動画にまでなって拡散されていく。晴斗は自分の名前が自分とは全く関係のないところで怪物のように一人歩きしていく恐怖をまざまざと味わっていた。
事務所の空気も最悪だった。
ボランティアの数人は気まずそうな顔でぱったりと顔を見せなくなった。家族や友人から「あんな人の手伝いをするのはやめなさい」と止められたのだろう。残ったメンバーもどうすればいいのかわからず無力感に苛まれていた。
「……晴斗。少し休んだら?」
結衣が目の下に深い隈を作った晴斗を心配そうに見つめた。
「街頭に立っても今は逆効果だよ。みんなあんたのこと色眼鏡で見てる」
「……休むわけにはいかない」
晴斗はか細い声で、しかしきっぱりと答えた。
「ここで俺が活動をやめたらデマを事実だと認めることになる。それに……」
彼は事務所の壁に貼られた「問題地図」を見た。無数のシールが声なき声で彼に訴えかけているように見えた。
「俺を待っててくれる人がいるかもしれない。たった一人でも」
その日の午後、天気予報は夕方から雨だと伝えていた。
空は重い灰色の雲に覆われている。
晴斗はいつものように駅前の広場に一人で演説台を立てた。結衣や健太は「今日だけはやめておけ」と必死で止めたが彼は首を縦に振らなかった。
雨がぽつりぽつりと降り始める。
傘を持たない人々は足早に駅のコンコースやアーケードへと駆け込んでいく。広場にはあっという間に人影がなくなった。
晴斗はマイクを握りしめたまま立ち尽くしていた。
聴衆は誰もいない。
あるのは自分を嘲笑うかのようにネットで燃え盛る炎だけ。
自分は一体何のために誰のためにここに立っているのだろう。
心が冷たい雨に打たれて凍えていくようだった。
その時だった。
一台のタクシーが広場の脇に静かに停まった。
後部座席から降りてきたのは一本の杖をついた老婆だった。晴斗が老人ホームの運動会で助けたあの老婆だ。
彼女は運転手に傘を差してもらいながらゆっくりと晴斗の方へ歩いてきた。
「……あんちゃん」
老婆はしわがれた声で晴斗に呼びかけた。
「こんな雨の中一人で風邪をひくよ」
「おばあちゃん……。どうしてここに」
「あんたが毎日ここに立ってるって孫から聞いてね。心配で来てみたんだよ」
彼女は自分のコートのポケットからくしゃくしゃになった一枚の紙を取り出した。それは健太が作った晴斗の政策チラシだった。
「ネットであんたの悪い噂が流れてるってのも聞いた。でもね私は信じないよ」
「……」
「この目で見たあんたを信じるよ。あの時見返りも求めず私みたいな年寄りを助けてくれたあんたのあのまっすぐな目をね」
老婆はそう言うと震える手で晴斗の手をそっと握った。
「だから負けるんじゃないよ。あんたみたいな人が本当にこの街には必要なんだから」
涙が溢れてきた。
雨に濡れているのか涙なのかもうわからなかった。
自分は一人ではなかった。
ネットの向こうの顔の見えない悪意に怯え自分は一番大切なものを見失っていた。
目の前にいるこの一人の人間。その温かい手。自分はこの人のために戦っているのだ。
「ありがとうございます……」
晴斗は嗚咽を漏らしながら何度も何度も頭を下げた。
雨はいつしか土砂降りになっていた。
その時、広場の向こうから数人の人影が傘を差して走ってくるのが見えた。
結衣だった。健太も美咲も田所もいる。事務所に残っていた仲間たち全員だった。
「晴斗! 馬鹿野郎! やっぱり一人で……!」
駆け寄ってきた結衣は晴斗の涙を見て言葉を失った。
健太は何も言わず持ってきた大きな旗を晴斗の背後に力強く広げた。
**――青嵐**
雨に打たれインクが滲みそうになりながらもその旗は灰色の世界の中で鮮やかにそこに立っていた。
「晴斗さん一人じゃないですよ!」
健太が叫んだ。
「俺たちもネットの噂なんか信じてません! あんたのその背中を信じてるんです!」
仲間たちが晴斗の周りを傘で囲うように肩を寄せ合う。
聴衆はたった一人の老婆と数人の仲間だけ。
だがそれは晴斗にとって何万人もの大観衆よりも心強い光景だった。
佐伯の言葉が脳裏に蘇る。
『お前を信じるかどうかは有権者が決める。この街の生身の人間が最後は判断する』
そうだ。俺の戦う場所はネットの泥沼の中じゃない。
この雨の降る葉山の路上だ。
晴斗は涙を拭うとマイクを強く握り直した。
そして土砂降りの雨の中、誰もいない広場に向かって再び声を張り上げた。
それは誰に聞かせるためでもない。
自分自身のそして信じてくれる仲間たちのための再起の誓いだった。
SNSの炎はまだ消えていない。
だが晴斗の心の中の炎はその雨に打たれてむしろより一層強く青く燃え上がっていた。




