第二十話:刺客と票割り
老人ホームの運動会での一件は小さな波紋を広げた。
「市川先生の運動会に変な若者が来ていた」
「転んだお婆さんを助けていたあの好青年は誰だ?」
地域のごく狭い範囲で木島晴斗の名前が良くも悪くも囁かれ始めたのだ。
それは晴斗の陣営にとって確かな手応えだった。
「作戦成功ですね!」
事務所で健太が興奮気味に言った。ネットの掲示板にも運動会の出来事に関する書き込みがいくつか見受けられた。
「でもなんだか少し怖い気もするわ」
主婦の美咲が不安そうに呟いた。
「市川さんこのことを知ったら黙ってないんじゃないかしら」
美咲の懸念はもっともだった。自分たちは眠れる獅子の髭を一本だけ抜いてしまったのかもしれない。
その予感は数日後に最悪の形で現実のものとなる。
きっかけは佐伯が持ってきた一枚のチラシだった。
それは晴斗の陣営が作ったものではない。真新しいデザインの別の政治活動用チラシだ。
「政治に新風を! 若者の声を葉山市政へ!」
そのキャッチコピーと共に爽やかな笑顔を浮かべた若い男性の写真が印刷されている。
その男の名は相馬圭祐。二十八歳。元IT企業会社員。
「……誰だこいつ」
晴斗は眉をひそめた。自分と年齢も経歴もそして掲げているスローガンも驚くほど似通っている。
「最近駅の向こう口で活動を始めたらしい」
佐伯の声はいつになく険しかった。
「おそらく市川が立ててきた『刺客』だ」
「刺客……?」
佐伯は事務所の壁に貼られた葉山市の大きな地図の前に立った。
「健太、お前の分析だと俺たちの支持層はどのあたりに多い?」
「ええと……SNSの反応や街頭演説の手応えからすると比較的若い世代が多い駅の南側と新興住宅地が中心です」
健太が地図のいくつかのエリアを指さす。
すると佐伯は赤いマジックでそのエリアをぐるりと囲んだ。
「そしてこの相馬とかいう男が活動しているのは駅の北側……市川の地盤が比較的弱いやはり若い世代が多いエリアだ」
佐伯は今度は青いマジックで別のエリアを囲んだ。
「これが選挙の教科書にも載っている古典的でそして最も効果的な戦術……『票割り』だ」
佐伯の声が事務所に重く響いた。
「票割り……?」
晴斗にはその意味がまだ正確には理解できなかった。
「いいか坊主。お前のような無所属の新人候補者が得られる票は大きく分けて二種類ある。『現状の市政に不満を持つ改革派の票』と『若い候補者に期待する同情票』だ。そしてその票は決して無限にあるわけじゃない。パイの大きさは決まっているんだ」
佐伯は晴斗が活動する赤いエリアと相馬が活動する青いエリアをマジックで繋いだ。
「市川の狙いはその限られたパイをお前とこの相馬という男で食い合わせることだ。お前と似たような主張をする見栄えの良い若者をもう一人立てる。そうすればお前に流れるはずだった票の少なくとも半分はこの男に流れる」
「……!」
晴斗ははっとした。
「例えばお前が千票を獲得できるポテンシャルを持っていたとする。だがこの男が現れたことでお前は五百票、こいつも五百票という結果になる。二人合わせれば千票だが当選ラインが千六百票ならどうなる?」
「……二人とも落選する」
「その通り。これがお前たちの票をチェスの駒のように操作して殺しに来る『票割り』という戦術だ。市川は自分の手を汚すことなくお前たち『若者候補』を共倒れさせることができる」
事務所は恐怖で静まり返った。
自分たちが必死で積み上げてきたものがそんな理不尽な、しかし極めてロジカルな戦術の前に無に帰そうとしている。それは正面からの殴り合いではない。自分たちの足元に巨大な落とし穴を掘られるような陰湿でそして効果的な攻撃だった。
「なんて卑怯な……!」
結衣が悔しそうに声を震わせた。
「卑怯じゃない。選挙戦略だ」
佐伯は冷ややかに言った。
「運動会の一件で市川はお前を『無視できない存在』だと認識したんだ。だから手を打ってきた。これは敵がお前を認めたという証拠でもある。……喜んでる場合じゃないがな」
どうすればいいのか。
晴斗は目の前の地図をただ呆然と見つめることしかできなかった。
似たような政策を掲げる相馬とどう差別化すればいい? 彼を批判すればそれは醜い足の引っ張り合いにしか見えないだろう。
初めて晴斗は佐伯以外の「同世代のライバル」の出現に言いようのない焦りとそしてかすかな嫉妬を感じていた。
自分たちの戦いは市川という巨大な敵だけを相手にしていればいい単純なものではなくなっていた。
泥沼の戦いがすぐそこまで迫っている。その予感が事務所の全員の肩に重くのしかかっていた。




