第十九話:敵陣の運動会
「組織票を切り崩す……」
佐伯が去った後も事務所の空気は重かった。晴斗はホワイトボードに書かれた「組織票」という文字を睨みつけるように見つめていた。それはまるで姿の見えない巨大な怪物のようだ。どうすればその牙城に一太刀を浴びせることができるのか。
「とにかく相手を知ることから始めましょう」
沈黙を破ったのは元教師の田所だった。彼は老眼鏡の奥から落ち着いた目で皆に語りかけた。
「市川議員がどういう場所でどういう人々と繋がっているのか。それを知らなければ手の打ちようがありません」
その言葉をきっかけに事務所は再び動き出した。
健太がインターネットで市川の後援会の活動記録を洗い出し主婦の美咲はママ友ネットワークを駆使して地域のイベント情報を集める。そして晴斗自身も市役所の元同僚にそれとなく探りを入れた。
数日後、彼らの地道な調査によって市川の「地盤」の輪郭が少しずつ見えてきた。
彼は葉山市のあらゆる団体に名誉顧問や相談役として名を連ねていた。老人クラブの連合会、ゲートボール協会、民謡同好会、そして葉山市最大の社会福祉法人が運営する巨大な老人ホーム。そのどれもが何百、何千という会員を抱える巨大な票田だった。
「今度の日曜日、この『葉山苑』という老人ホームで秋の大運動会があるそうです」
美咲が一枚のチラシをテーブルに広げた。
「入所者さんとそのご家族、地域のボランティアも参加するこの施設で一番大きなイベントです。そして大会の名誉会長はもちろん……」
「市川幸太郎か」
晴斗は苦々しく呟いた。
「敵の本丸だな」と佐伯は言った。彼はいつの間にか事務所に現れ皆の話を聞いていた。
「市川は毎年必ずこの運動会に顔を出しにこやかに挨拶をして入所者一人ひとりの手を握って回る。それだけで数百票が固まる。年寄りにとって議員先生に手を握ってもらうのは有り難いご利益みたいなもんだからな」
「……汚い」
健太が吐き捨てるように言った。
「汚くはない。それが地道な努力の積み重ねというやつだ」
佐伯は淡々と答えた。
「行くぞ坊主」
「え?」
「決まってるだろう。その運動会に殴り込みだ」
佐伯の言葉に事務所にいる全員が息を呑んだ。
「で、でも俺たちは招待されていません! 追い出されるだけです!」
「ただの一般市民として地域のイベントを見学しに行くだけだ。誰にも文句は言わせん」
佐伯の目はまるで悪戯を企む子供のようにギラギラと輝いていた。
日曜日。
晴斗は佐伯に言われるがまま一張羅のジャケットを羽織り老人ホーム『葉山苑』の広大なグラウンドに立っていた。
空には万国旗がはためき大音量で音楽が流れている。入所者の老人たち、その家族、施設の職員、ボランティア。数百人規模の変な賑わいだった。
「圧倒的だな……」
晴斗はその光景に圧倒された。自分たちが駅前で必死に声を枯らして集めた聴衆が霞んで見えるほどの人の数。そのほとんどが市川の支持者なのだ。
やがて開会式が始まった。
マイクの前に立ったのは予想通り満面の笑みを浮かべた市川幸太郎だった。
「皆様、本日は秋晴れのもとかくも盛大に運動会が開催されますこと心よりお慶び申し上げます! 私も皆様の元気なお顔を拝見し明日への活力をいただきました!」
よどみない挨拶。巧みなジョーク。それにどっと沸く会場。
晴斗は自分が決して持ち得ないその老獪なまでの人心掌握術を前にただ立ち尽くすしかなかった。
「……どうすればいいんですか佐伯さん」
「黙って見てろ」
佐伯は少し離れた木陰から静かに戦況を見つめていた。
競技が始まると市川は来賓席から降り甲斐甲斐しく車椅子の老人たちに声をかけて回り始めた。
「おばあちゃん元気そうだねえ!」
「いつも応援ありがとうね!」
その手慣れた様子はもはや選挙運動というよりも家族との触れ合いのようだった。誰も彼を邪魔者扱いしない。彼はこの場所の「王様」だった。
その時だった。
パン食い競争に参加していた一人の老婆がゴール前で足をもつれさせ派手に転倒した。
「危ない!」
近くにいた職員が駆け寄ろうとするよりも早く一人の男が老婆に駆け寄っていた。
晴斗だった。
彼はとっさに体が動いていた。
市川への対抗心など頭から消えていた。ただ目の前で困っている人を助けたい。その一心だった。
「おばあちゃん大丈夫ですか!? どこか打ちましたか!?」
晴斗は優しく声をかけながら老婆がすりむいた膝に自分のハンカチをそっと当てた。
「……ああありがとうねえ兄ちゃん。助かったよ」
老婆は安心したように晴斗の腕に捕まってゆっくりと立ち上がった。
その一連の出来事を会場にいた多くの人々が見ていた。
市川も一瞬驚いたような顔でその若者を見ていた。
職員たちが駆けつけ老婆は医務室へと運ばれていく。晴斗は誰に言うでもなく深く頭を下げた。
その時、佐伯がすっと晴斗の隣に立った。
「……上出来だ坊主」
その声には珍しくかすかな賞賛の色が混じっていた。
「今のお前は候補者じゃなかった。ただの親切な一人の若者だった。そしてこの会場にいる何人かは確かにお前の顔を覚えたはずだ」
組織票の牙城に風穴を開ける。
それは大砲を撃ち込むような派手な戦いではなかった。
ただ誠実に目の前の一人に向き合うこと。
巨大な岩盤にほんの少しだけ亀裂を入れる。その一滴の雫となること。
晴斗は自分の汚れたハンカチを見つめた。
まだ勝ち筋は見えない。それでも自分たちがやるべきことの本質がほんの少しだけわかった気がした。
敵陣の真ん中で晴斗は静かに拳を握りしめた。




