第十七話:演説という「対話」
事務所が稼働を始めて数日が過ぎた。
晴斗と七人の仲間たち。彼らはそれぞれができることを手探りで見つけていった。
定年退職した元教師の田所は達筆を生かして宛名書きを。ベビーカーの母親、美咲は子育て世代の目線から政策のアイデアを。そして憎まれ口を叩きながらも毎日顔を出す大学生の健太はパソコンが得意だという理由で晴斗のブログやSNSの更新を一手に引き受けることになった。
事務所には少しずつ「組織」としての形が生まれ始めていた。
だが晴斗の心は晴れなかった。
街頭での活動は依然として苦戦が続いていた。握手の数は伸び悩み足を止めてくれる人はまだ少ない。自分の想いが空回りしているような焦燥感が常に胸の奥に渦巻いていた。
「……演説をしろ坊主」
その夜事務所に顔を出した佐伯が壁に貼られた「問題地図」を眺めながらぽつりと言った。
「演説ですか? でも公示日前だから選挙運動は……」
「『政治活動』としてやるんだ。自分の政策や理念を訴えることは法律で認められている。ただし『投票してください』とは絶対に言うな。いいな?」
「はい。ですが……何を話せばいいのか」
晴斗には自信がなかった。大勢の人の前で理路整然と話せるだけの知識も経験もない。
「決まってるだろう」
佐伯は地図に貼られた一枚のシールを指でとんと叩いた。
「これを話せ」
それは主婦の美咲が「夜道が暗くて怖い」と訴えていた住宅街の路地を示したシールだった。
「お前がこの一ヶ月、自分の足で聞いてきたこの街の『痛み』を話すんだ。難しい政策論争じゃない。人々の『生活』を語れ。それがお前だけの武器だ」
翌日の夕方。
晴斗は葉山市の駅前に立っていた。
隣には結衣と健太が手作りの小さなプラカードを掲げている。そこには「木島晴斗 青嵐の会 活動報告」とだけ書かれていた。佐伯の指示で用意した折り畳み式の小さな演説台。その前に立ちマイクを握る。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
家路を急ぐ人々がこちらを奇異なものを見るようにちらちらと見ては通り過ぎていく。誰も足を止めようとはしない。
(本当に聞いてくれる人なんているのか……?)
恐怖で声が出なかった。喉がカラカラに乾き握りしめたマイクが手汗で滑る。
その時、視線の先に美咲がベビーカーを押しながら立っているのが見えた。彼女は何も言わずただまっすぐに晴斗を見つめ小さく頷いた。
彼女だけじゃない。通勤途中のサラリーマン田所も少し離れた場所から心配そうにこちらを見守っている。
仲間がいる。
その事実が晴斗の背中を強く押した。
晴斗は一度目を閉じて深く息を吸い込んだ。
そして震える声で語り始めた。
「……こんばんは。木島晴斗です」
第一声は雑踏のノイズにかき消されそうなくらい小さかった。
だが彼は続けた。
「私は一ヶ月前まで市役所で働いていました。窓口で毎日たくさんの人の声を聞いていました。ですが私にできることはいつも『申し訳ありません』と頭を下げることだけでした」
足を止める人はまだいない。
だが晴斗は誰に聞かせるでもなく自分自身に語りかけるように言葉を紡いだ。
「市役所を辞めてから私はこの街を歩き続けました。そしてたくさんの声を聞きました。あるお母さんがこう言っていました。『駅の北側にある緑道公園。あそこは夜、街灯が一つもなくて子供を連れて歩くのが怖い』と」
その言葉に数人の女性がぴくりと足を止めた。毎日その道を使っている人たちだった。
「あるご老人が言っていました。『市役所行きのバスの本数が半分に減らされた。役所に行くだけで半日仕事だ』と」
バス停の方で待っていた数人の老人がはっとしたようにこちらを振り返った。
晴斗はもう聴衆の顔を見ていなかった。
彼の脳裏にはノートに書き留めた人々の顔がその切実な声が次々と浮かんでいた。
演説ではなかった。
それは彼が預かってきた「声」を街に返す作業だった。
「政治は私たちの生活そのものです! 街灯が一つ切れていること。バスが一時間に一本しかないこと。公園のベンチが壊れたままになっていること。それらすべてが政治の問題です! なのに今の葉山市の議会は私たちの生活からあまりにも遠い場所にあるのではないでしょうか!」
声に熱がこもり始める。
いつの間にか晴斗の周りには十人、二十人と人だかりができていた。彼らはスマホをいじるでもなくただ食い入るように晴斗の言葉に耳を傾けていた。
「私は約束します! もし私が議会に行けたならこの皆さんの『小さな声』を決して無視しません! 一つ一つ議会という場所に届けこの葉山を本当に暮らしやすい街に変えてみせます!」
最後の言葉は叫びに近かった。
言い終えた瞬間、全身の力が抜け晴斗は演説台に手をついた。
静寂があたりを支配する。
(……ダメだったか)
やはり素人の演説など誰も聞いてはくれなかったのか。
晴斗が顔を上げたその時だった。
パチ、パチ、パチ……。
まばらな、しかし温かい拍手がどこからともなく湧き上がった。
足を止めていた人々が晴斗に拍手を送っていたのだ。
その中には涙を浮かべている老婆もいた。
それは選挙のプロが計算し尽くした巧みな演説ではなかったかもしれない。
だがそこには確かな「対話」が生まれていた。
晴斗の言葉が初めて名もなき人々の心に確かに届いた瞬間だった。




