第十六話:事務所開きと最初の仲間
旗は掲げた。
だがその旗を掲げる場所が晴斗にはなかった。
選挙運動の拠点となる「事務所」。それは候補者の顔であり心臓部だ。市川のような現職議員は駅前の一等地に立派な事務所を構えている。だが今の晴斗の全財産ではワンルームアパートの家賃を払い続けることすらままならない。
「……仕方ない。俺のアパートを事務所にするしか……」
「馬鹿を言え」
佐伯のバーで晴斗の弱音を佐伯は一蹴した。
「そんな六畳一間で何ができる。ボランティアが一人来ただけで足の踏み場もなくなるぞ。それに、お前の私生活がそこにはある。選挙が始まればお前は二十四時間『候補者』でなければならん。プライベートと活動の場は絶対に分けろ。でないと精神がもたん」
「ですが金が……」
「……心当たりが一つだけある」
佐伯は珍しく少しだけ言いにくそうな顔をした。
翌日、佐伯に連れてこられたのは彼が営む『BAR SAEKI』からほど近い古びた雑居ビルの前だった。
「ここだ」
佐伯が指さしたのは二階の一室。窓には「テナント募集」の張り紙が色褪せて貼られている。
「ここは……?」
「俺の持ち物だ。昔親父がやっていた雀荘の跡地でな。十年近く借り手がつかずに埃をかぶっている」
佐伯はポケットから鍵束を取り出すと錆びついたシャッターをぎぎぎと音を立てて開けた。
中は想像以上に広くそしてひどい状態だった。
床には埃が積もり壁紙は剥がれ隅には古い麻雀卓や椅子が山積みにされている。タバコのヤニとカビの匂いが混じった澱んだ空気が鼻をついた。
「……まあ見ての通りただの廃墟だ。だが屋根と壁はある。水道も電気もまだ死んではいない。家賃はお前が当選してから分割で払えばいい」
「佐伯さん……」
晴斗は言葉を失った。この男はただ口先だけで自分を導いているのではなかった。本気で自分に賭けてくれている。
「ありがとうございます……!」
「勘違いするな。これは投資だ。お前という馬券に俺が賭けるだけの話だ」
佐伯はぶっきらぼうにそう言うとさっさと踵を返した。
その日から晴斗の新たな戦いが始まった。
選挙活動ではない。事務所の大掃除だ。
昼間は街頭に立ち夜はこの廃墟同然の部屋で一人埃と格闘した。床を磨き壁の汚れを落とし粗大ゴミを運び出す。作業は遅々として進まなかった。
「……何やってんのあんた」
三日目の夜。
真っ黒になりながら床にワックスをかけている晴斗の背中に呆れたような声がかけられた。結衣だった。
「結衣……。見ての通り大掃除だ。ここが俺の事務所になる」
「事務所って……ひどい有様じゃない。一人でやってたの?」
「ああ」
「……馬鹿じゃないの」
結衣は深いため息をつくと持っていたコンビニの袋を床に置いた。中にはおにぎりとお茶とそして軍手が入っていた。
「……貸しなさいよ。私も手伝うから」
彼女は何も言わずに軍手をはめると雑巾を手に取った。
「結衣……でもお前の店が……」
「いいの。あんたがこんな所でくたばったらうちの店の立ち退き問題、誰も解決してくれないでしょ。これは私のための投資よ」
彼女は佐伯とそっくりなセリフをいたずらっぽく笑いながら言った。
二人で作業を始めると効率は格段に上がった。
黙々と手を動かしながらぽつりぽつりと言葉を交わす。それは市役所を辞めてから初めて持てた穏やかな時間だった。
その週末。
晴斗と結衣がペンキで壁を塗っていると事務所の入り口に数人の人影が現れた。
一人は晴斗が街頭で話を聞いたベビーカーの母親だった。
「あの、ブログ見ました。もし人手が足りないなら少しでも手伝えないかと思って」
もう一人はいつも通勤途中に会釈をしてくれるようになった初老のサラリーマン。
「毎朝あなたの姿を見て元気づけられていましてね。何か私にできることはないかと」
そして少し離れた場所で腕を組みながら中の様子を窺っている大学生くらいの若者がいた。彼は晴斗と目が合うと少し照れくさそうに口を開いた。
「……別に手伝いに来たとかじゃねえけど」
彼はぶっきらぼうに言った。
「駅前であんたがバカにされてんの見たんだよ。それでも頭下げてんの見て……なんて言うかムカつくくらいまっすぐだなって。あんたみたいな奴が本当に政治家になれんのかこの目で見たくなっただけだ」
その憎まれ口の中に彼なりの不器用な応援の気持ちが隠されているのを晴斗は感じ取った。
「ありがとうございます……!」
晴斗はペンキまみれの手で集まってくれた一人ひとりに対し深く深く頭を下げた。
その日を境に事務所にはぽつりぽつりと人が集まり始めた。
定年退職した老人、晴斗のブログを見たという大学生、近所に住む主婦。彼らは特定の支持政党があるわけではない。「木島晴斗」という一人の若者の挑戦を放っておけないと思った名もなき市民たちだった。
一週間後。
埃まみれの廃墟は見違えるようにきれいになった。
寄せ集めの机と椅子が並べられ壁には佐伯から譲り受けた大きな葉山市の地図が貼られている。そしてその中央に。
――青嵐
晴斗が書いたあの旗が誇らしげに掲げられていた。
集まったのは晴斗と結衣、そして五人のボランティア。
総勢七人。
市川陣営の何百人といるだろう組織に比べればあまりにも小さく頼りない船出だ。
だがそれは確かに木島晴斗の最初の「仲間」だった。
彼はもう一人ではなかった。
事務所の窓から葉山の街並みを見下ろす。
ここから本当の戦いが始まる。
晴斗は隣に立つ仲間たちの顔を見渡し強く頷いた。




