第十五話:青嵐の旗(せいらんのはた)
町内会の集会所から追い返された一件は晴斗の心に重くのしかかった。
それは単に演説の機会を失ったという以上の深刻な意味を持っていた。あの場所にいたのは特別な政治思想を持つ人々ではない。ごく普通の地域に暮らす人々だ。その「普通の人々」と自分との間に分厚い壁が存在するという事実。それが晴斗を打ちのめした。
その夜も晴斗は佐伯のバーにいた。カウンターで彼は黙り込んでいた。何を話せばいいのか言葉が見つからなかった。
「……まあ飲め」
佐伯は何も聞かずただウイスキーのロックを晴斗の前に置いた。
琥珀色の液体の中で大きな氷がカランと寂しい音を立てる。
「佐伯さん……俺、間違ってたんでしょうか」
しばらくして晴斗はか細い声で呟いた。
「市役所を辞めたのも選挙に出ようと決めたのも……ただの独りよがりだったのかもしれない。誰も俺みたいな奴を求めてなんかいなかったんだ」
弱音が一度口から出るともう止まらなかった。大輔のこと、町内会のこと。張り詰めていた糸がぷつりと切れたように悔しさと無力感が溢れ出してくる。
佐伯は黙って聞いていた。
そして晴斗が全てを吐き出し終えたのを見計らうように静かに口を開いた。
「……お前、自分の名前でネット検索したことはあるか?」
「え? ネットですか? いえ、ありませんけど……」
唐突な質問に晴斗は戸惑った。
佐伯はカウンターの下から一台の古いノートパソコンを取り出した。そして検索窓に「木島晴斗 葉山市」と打ち込む。
表示された画面を晴斗の方へくいと向けた。
そこには晴斗が全く知らない匿名の掲示板のスレッドが立っていた。
【葉山市の新人】木島晴斗って、どうよ?【無所属】
恐る恐る晴斗はその書き込みを読み進めた。
『駅前で毎日突っ立ってるあの若い奴か』
『なんか胡散臭いよな。どこの党の回し者だよ』
『市役所の非正規だったらしいぜ。クビになった腹いせか?』
誹謗中傷のオンパレードだった。根も葉もない噂、人格を否定するような言葉。胸がずきりと痛んだ。
だがその中にぽつりぽつりと違う種類の書き込みが混じっていた。
『いや俺はこの前話したぜ。公園のゴミのことで相談したらすげえ真剣にメモ取ってた』
『うちの婆ちゃんが道で転んだ時助けてくれたの多分あの人だ』
『ベビーカー押してたら頑張ってくださいって声かけてくれた。悪い人には見えなかったけどな』
それは晴斗がこの一ヶ月、街頭で出会った人々の声なき声だった。
そしてある一つの書き込みに晴斗は目を奪われた。
『あいつの目、本気だよ。今の葉山市に必要なのは市川みたいな古い狸じゃなくてああいう青臭い嵐なんじゃねえの』
青臭い嵐。
その言葉がなぜか胸にすとんと落ちた。
「……これが、お前の『地盤』の最初の芽だ」
佐伯が静かに言った。
「町内会や後援会みたいな目に見える組織じゃない。だがなお前が自分の足で歩いて頭を下げて蒔いてきた種はこうして誰も知らない場所でちゃんと芽を出し始めてるんだ」
「……」
晴斗は画面から目が離せなかった。涙で文字が滲んでいく。
「お前は蜘蛛の巣の中では戦えない。なら戦う場所を変えるしかない。巣の外で新しい風を起こすんだ」
佐伯は立ち上がると店の奥から一枚の真っ白な布を持ってきた。それは選挙事務所などで使う旗を作るためのまだ何も書かれていない布だった。
彼はその布と一本の筆ペンを晴斗の前に置いた。
「旗を掲げろ坊主」
「旗……ですか?」
「そうだ。お前が何のために戦うのか。この街をどうしたいのか。お前の想いを言葉にしてそこに書くんだ。それがお前の事務所でありお前の看板でありお前の『地盤』に集う者たちの唯一の目印になる」
晴斗は筆ペンを手に取った。
ずっしりと重い。このペン先には自分の未来と自分を信じてくれた人たちの想いががかかっている。
何を書く?
難しい政策の言葉はいらない。
ただ自分の心の真ん中にある想いを。
晴斗は一度深く息を吸った。
そして真っ白な布の上に迷いなく筆を走らせた。
そこに書かれたのはたった一言。
――青嵐
「せいらん……か」
佐伯が呟いた。
「初夏に吹く青葉を揺らす強く新しい風。……悪くない」
晴斗は書き上げた旗を両手で広げた。
それはまだインクも乾いていない拙い文字だったかもしれない。
だがそれは確かに木島晴斗という一人の青年が初めて自らの手で掲げた戦いの旗だった。
もう迷わない。
独りよがりでも青臭いと言われてもいい。
この旗の下に一人でも信じてくれる人がいる限り自分は戦い続ける。
晴斗の目に再び強い光が戻っていた。
それはただの怒りや反骨心ではない。
絶望の底で人々の声に触れ自分の使命を見出した男の静かで、しかし何ものにも揺るがない覚悟の光だった。
第一部、了。
立志の時は終わり物語は次なる修行と最初の戦いの舞台へと歩を進める。




