第十四話:見えないルールブック
供託金を納めてからというもの晴斗の日常はさらに過酷さを増した。
手元に残ったわずかな金で食いつなぐため食事は一日二食、百円のカップ麺とスーパーの見切り品のパンが主になった。日中は街頭に立ち夜はアパートでノートと地図の整理、そして選挙について猛勉強する。睡眠時間は日に日に削られていった。
彼が今格闘しているのは「公職選挙法」という分厚い法律の壁だった。
佐伯のバーで晴斗はうんざりした顔で六法全書を前に突っ伏していた。
「……佐伯さん。これ無理ですよ。書いてあることが難しすぎて全然頭に入ってこない」
条文はどれもこれも「何々をしてはならない」「但しこの場合はこの限りではない」といった回りくどい言い回しの連続だ。
「だろうな」
佐伯はいつものようにグラスを磨きながら平然と言った。
「だがそのルールブックを理解せずにリングに上がればお前は試合が始まる前に反則負けで退場だ。知らなかったでは済まされん」
佐伯は晴斗が読んでいたページを指さした。
「例えばこれだ。『事前運動の禁止』。選挙の公示日より前に有権者に対して『私に投票してください』と直接お願いすることは法律で禁じられている。破れば即アウトだ」
「えっ!? じゃあ俺が今まで街頭でやってきたことは……」
晴斗は血の気が引いた。自分はすでに法を犯していたのではないか。
「ギリギリセーフだ」と佐伯は言った。
「お前がやっているのはあくまで『木島晴斗です』と名前を名乗り政治活動をしていることを周知させる『挨拶行為』だ。そこで『一票お願いします』と言った瞬間に黒になる。その境界線は紙一重なんだ」
晴斗はぞっとした。
そんな危険な綱渡りを自分は何も知らずに続けていたのだ。
「それからこれ。『戸別訪問の禁止』」
佐伯は別の条文を指さす。
「一軒一軒家を回って『こんにちは木島です』と挨拶して回る。熱心で丁寧な方法だと思うだろう? だがこれも禁止だ。昔この戸別訪問を利用して有権者に金品を渡す買収行為が横行したからな。その芽を摘むために一切が禁じられている」
「じゃあどうやって皆さんに想いを伝えればいいんですか! 一軒ずつお話を聞くのが一番じゃないですか!」
晴斗は思わず声を荒らげた。あまりにも理不尽なルールに思えた。
「それがこの国の選挙のルールだ」
佐伯の声は静かだった。
「だから現職の議員どもは祭りや地域の運動会、冠婚葬祭にせっせと顔を出す。そういう場所なら『偶然会った』という体で有権者と話ができるからな。新人のお前にはその『顔を出す場所』すらない。圧倒的に不利なルールなんだよ」
公職選挙法。
それは公正な選挙を行うためのルールブックであると同時に新参者が現職の牙城を崩すことを困難にするための見えない「壁」でもあった。晴斗はその事実をようやく理解し始めた。
ある日の午後、晴斗は自分のアパートがある地域で挨拶回りをしていた。もちろん一軒一軒のインターホンを押すわけにはいかない。道行く人に声をかけ公園で遊ぶ子供たちの親に頭を下げる。そんな地道な活動だ。
「頑張ってるな兄ちゃん」
声をかけてきたのは近所に住む顔なじみの老人だった。
「いつもありがとうございます」
「どうせならうちの集会所でも挨拶していきなさい。今度の日曜、町内会の寄り合いがあるから」
願ってもない申し出だった。一度に何十人もの人に顔を覚えてもらえる。
「本当ですか!? ぜひお願いします!」
晴斗は深く頭を下げた。
日曜日、晴斗は少しだけ良い襟付きのシャツを着て指定された集会所へと向かった。胸は高鳴っていた。初めてまとまった人々の前で話ができる。
しかし集会所の入り口で晴斗は一人の男に呼び止められた。
この地域の町内会長だった。そして彼は市川幸太郎の後援会の幹部でもある。
「……君が木島くんか」
町内会長は品定めするような目で晴斗を上から下まで眺めた。
「話は聞いている。だが残念だがここで君に話をさせるわけにはいかない」
「え……? でも先日こちらの方からお誘いいただいたんですが」
「個人の意見と町内会としての決定は別だ。特定の候補者を応援するような行為は会の規約で禁じられている。それに……」
町内会長は声を潜めた。
「君のようなどこの馬の骨ともわからん若者を市川先生の地盤で好き勝手させるわけにはいかんのだよ」
それは公職選挙法という表のルールブックには書かれていないもう一つの暗黙のルールだった。
『地盤』。
それは法律よりも強く地域を支配する見えない秩序なのだ。
晴斗は集会所の中のにぎやかな声を背中で聞きながらすごすごと引き返すしかなかった。
悔しさで唇を噛みしめる。
ルールに則って正々堂々と戦おうとしてもその土俵にすら上がらせてもらえない。
市川という男が張り巡らせた蜘蛛の巣は晴斗が想像していたよりもずっと広くそして強固だった。
ただ闇雲に動き回るだけでは勝てない。
晴斗は自分の戦い方の根本的な見直しを迫られていた。




