第十三話:三十万円の重み
大輔との一件以来、晴斗の心には目に見えない棘が刺さったままだった。
街頭に立ち人々と握手を交わす。その行動そのものに迷いはない。だがふとした瞬間に「自分の行動は誰かの生活を脅かしているのではないか」という疑念が黒い染みのように心を蝕むのだ。
そんな晴斗の様子を佐伯は見抜いていた。
「……顔に出てるぞ坊主。何かあったか」
その夜、佐伯のバーを訪れた晴斗に彼はカウンターの中から静かに問いかけた。
晴斗はぽつりぽつりと大輔との出来事を語った。友情よりも生活の安定を選んだ友人を責めることはできない。だがどうしようもなく心がざわつくのだと。
「当たり前だ」
話を聞き終えた佐伯は吐き捨てるように言った。
「それが『地盤』の正体だ。市川という男はな何十年もかけてそういう目に見えない恩と貸しを街中に張り巡らせてきたんだ。お前の幼なじみの酒屋もその蜘蛛の巣に絡め捕られた一匹の虫に過ぎん」
「……どうすればその巣を破れるんですか」
「破れん。少なくとも今の素手のお前ではな」
佐伯はグラスを磨く手を止め奥の棚から一本のウイスキーボトルを取り出した。年代物の高価そうなボトルだ。
「政治家になろうとする人間は二種類に分かれる。蜘蛛の巣を自分のためにより強固に張り巡らせようとする奴。そして……」
彼は晴斗の目の前のグラスに琥珀色の液体を静かに注いだ。
「その巣に絡め捕られた人間を一人でも多く救い出そうとするお前のような馬鹿だ」
その言葉は慰めではなかった。だが晴斗の心に深く刺さっていた棘をそっと引き抜いてくれるような響きがあった。
「迷うな。お前がやるべきことは変わらん。一人でも多くの声を聞き一人でも多くの手を取り自分の足で自分の地盤を作るんだ。蜘蛛の巣の外側にな」
「……はい」
晴斗は差し出されたグラスを両手でしっかりと受け取った。
数日が過ぎ選挙の告示日まで残り三ヶ月を切っていた。
その日、晴斗は決意を固め葉山法務局の重い扉を開けた。
「供託」
そう書かれた窓口で晴斗は震える手で預金通帳と印鑑を差し出した。
「市議会議員選挙の供託をお願いします」
手続きは淡々と進んでいく。
通帳から三十万円という数字が機械的に引き落とされていく。それは晴斗が二年かけて貯めた全財産のほとんどだった。臨時職員として昼食を切り詰め欲しい服も我慢して少しずつ積み上げてきた汗の結晶だ。
「はいこちらが保管証です。選挙が終わるまで大切に保管してください」
窓口の職員から手渡されたのは一枚の何の変哲もない紙切れだった。
その紙切れがひどく重く感じられた。
佐伯から供託金について教えられた時の言葉が脳裏に蘇る。
『いいか坊主。あれはな国が「遊び半分で出るな」と突きつけてくる最初のハードルだ。そして権力者たちが「俺たちと同じ土俵に上がりたいならまず身銭を切れ」と要求してくる入場料でもある』
『そして一番大事なことを教えてやる。供託金は没収される。有効投票総数の十分の一。その票数に届かなければお前が預けた三十万円は国に召し上げられて二度と戻ってこない。お前は文字通り無一文になるんだ』
法務局を出た晴斗はしばらくその場から動けなかった。
三十万円。
その金の重みがずしりと両肩にのしかかってくる。もう後戻りはできない。引き返す道は完全に断たれた。
もし落選したら? もし票数が足りなかったら?
アパートの家賃も払えず食べるものにも困るだろう。勘当された実家には戻れない。自分を待っているのは社会的などん底だ。
恐怖で足が震えた。
佐伯の言っていた「没収される恐怖」の意味を晴斗は今全身で理解していた。
これはただの選挙ではない。
自分の人生そのものを賭けた大博打なのだ。
晴斗は空を見上げた。葉山の空はどこまでも高くそして青かった。
震える足に叱咤するように力を込める。
大丈夫だ。自分は一人じゃない。ノートに書き留めたあの人たちの声がある。地図に印した無数のシールがある。
彼は保管証を大切に内ポケットにしまうと再び街へと歩き出した。
その背中はここに来た時よりも少しだけ小さく、しかし覚悟の分だけ確かに強くなっているように見えた。
一歩また一歩。
その足取りはもう迷っていなかった。




