第十二話:亀裂の音
それからの一週間、晴斗の行動は変わった。
ただ握手を求めるだけではない。人々の声により深く耳を傾けるようになった。そして夜アパートに戻ると佐伯に渡された地図に几帳面に印をつけていく。赤いシールは街灯の問題、青いシールはゴミの問題、黄色は交通の問題。日を追うごとに葉山市の地図は市民の悲鳴を可視化したかのように色とりどりのシールで埋め尽くされていった。
不思議なことに目的が明確になると握手の成功率もわずかに上がっていった。
「駅前の駐輪場、もっと増やしてほしいんだよな」
そんな声を聞けば晴斗は「わかります。私も毎日不便に感じていました。その声、必ず議会に届けます」と具体的な言葉で返すことができる。彼の言葉に単なるスローガンではない切実さが伴い始めたからだ。
ある日の夕方、晴斗は「あさひ通り商店街」の入り口に立っていた。
ここは結衣の店があるいわば彼の原点とも言える場所だ。シャッターが下りた店の前で顔なじみの八百屋の店主が売れ残った野菜を片付けていた。
「よう晴斗。頑張ってるみたいだな」
「ご無沙汰してます。おじさんお店、最近どうですか?」
「どうもこうもねえよ。再開発の話が出てから客足は遠のく一方だ。みんなもうこの街に見切りをつけちまってるのさ」
店主は深いため息をついた。
晴斗は何も言えなかった。再開発を止めたい。その一心で市役所を飛び出したはずなのにまだ何一つ具体的な行動を起こせていない。
「お、晴斗じゃないか」
声のした方を見ると結衣が店の暖簾をくぐって出てきたところだった。その隣には晴斗と結衣の共通の友人が立っていた。小学校からの付き合いである大輔だ。彼はこの商店街で酒屋を営んでいる。
「大輔! 久しぶりだな」
「おう。お前大変なことになってるらしいな。聞いたぜ選挙出るんだって?」
大輔は快活に笑いながら晴斗の肩を叩いた。
「すげえじゃんか! 俺応援するぜ! この寂れた商店街を何とかしてくれよ!」
その言葉は乾いた心に染み渡るようだった。初めて身近な友人から真正面からの応援をもらった。
「……ありがとう。頑張るよ」
「そうだ大輔。あんたの店のシャッターにも晴斗のポスター貼らせてもらいなよ」
結衣が明るい声で提案した。
その瞬間、大輔の笑顔がほんの少しだけこわばったのを晴斗は見逃さなかった。
「え? あー……いやそれはちょっとな」
大輔は気まずそうに頭を掻いた。
「なんだよケチくさいなあ」
「いやそういうわけじゃねえんだけど……」
大輔は声を潜め周囲を気にするように言った。
「うちの店、市川議員の後援会に入ってるんだよ。親父の代からな。それに市長や部長さんたちも個人的にうちに注文をくれるんだ。ここでお前のポスターを貼ったりしたらうちの商売に響くんだよ。わかるだろ?」
空気が凍りついた。
わかるだろ?――その言葉が晴斗の胸に突き刺さる。
そうだわかる。彼には彼の生活がある。家族を養わなければならない。市川という権力者に逆らうことがどれだけのリスクを伴うか痛いほどわかる。
わかる、けれど。
「……そっか。ごめん無理言って」
晴斗は引きつった笑顔でそう言うのが精一杯だった。
「大輔、あんたねえ!」
結衣が食ってかかろうとするのを晴斗は黙って手で制した。
「いいんだ結衣。大輔の言う通りだ」
「……悪ぃな晴斗。でも気持ちは応援してるからさ」
大輔はそう言い残すとそそくさと自分の店に戻っていった。
後に残されたのは気まずい沈黙だけだった。
「……ごめん晴斗。私余計なこと言った」
結衣が申し訳なさそうに俯く。
「ううん。お前は悪くないよ」
晴斗は力なく笑った。
これが現実なのだ。友情や理想だけでは越えられない壁がある。人々はそれぞれの生活としがらみの中で生きている。市川幸太郎という議員が持っているのは政策や理念だけではない。人々の生活に深く根差した目に見えない「地盤」という名の巨大な力なのだ。
その夜、晴斗はアパートで一人ビールを煽った。
カウンターの数字は初めて六十を超えた。だが喜びはなかった。
大輔の「わかるだろ?」という言葉が頭から離れない。
自分は友人の生活を脅かしてまで自分の理想を貫こうとしているのだろうか。
佐伯のバーへ行く気にもなれず晴斗はただ黙々と色褪せた天井を見つめていた。
一日のノルマ百回。その試練の先に本当に光はあるのだろうか。
初めて自分の戦いの本質的な孤独と敵の本当の巨大さを骨身に染みて感じた夜だった。
心のどこかでピシリと小さな亀裂が入る音がした。




