第十一話:政治は生活である
その日の夜、晴斗は精根尽き果ててアパートのベッドに倒れ込んだ。
結局、駅前から場所を移しスーパーの前や商店街の入り口を渡り歩き日が暮れるまで声をかけ続けた。カウンターが示す数字は「三十四」。目標の百回には遠く及ばなかった。
全身が鉛のように重い。
だがその疲労感は市役所で感じていた精神的な摩耗とは種類が違っていた。無視された時の屈辱はまだ胸に残っている。しかしそれ以上にベビーカーの母親が差し出してくれたあの温かい握手の感触が心を支えていた。
翌日も晴斗は街に立った。
三日目も四日目も。雨の日も風の強い日も彼は葉山市のどこかの路上に立ち続けた。
ノルマである百回を達成できた日は一度もなかった。一日の終わりにカウンターの数字を見るたび自分の無力さに打ちのめされた。三十、四十、良い時でも五十に届けば御の字だった。
しかしわずかな変化は確実に起きていた。
毎日同じ場所に立ち続ける晴斗の姿を人々が「またあの若者がいる」と認識し始めたのだ。最初は訝しげな視線を向けていただけだった通勤客が軽く会釈をしてくれるようになった。商店街の店主が「兄ちゃん、精が出るな」と缶コーヒーを差し入れてくれることもあった。
そして少しずつ足を止めてくれる人が増えてきた。
彼らが口にするのは大仰な政治談議ではなかった。
「この先の道路、街灯が切れてて夜道が怖いのよ」
「うちの前の公園、ゴミがひどくて子供を遊ばせられないんだ」
「バスの本数が減って病院に行くのが大変でねえ」
一つ一つは小さな声。新聞の一面を飾るような大きな問題ではない。
だがそれは紛れもなくこの街で暮らす人々の切実な「生活」の声だった。
晴斗は一言も聞き漏らすまいとボロボロのノートに彼らの言葉を書き留めていった。
ある日の午後、晴斗がバス停の前で挨拶運動をしていると一台の黒塗りの車がすぐそばに停まった。後部座席の窓が静かに開き中から現れた顔を見て晴斗は息を呑んだ。
市川幸太郎だった。
ポスターの中の笑顔とは違う値踏みするような冷たい目で市川は晴斗を見下ろしていた。
「君か。市役所を辞めて出馬するというのは」
市川の声は穏やかだったがその裏に隠された圧力は明らかだった。
「……はい。木島晴斗と申します」
「感心、感心。若者が政治に興味を持つのは良いことだ。だがね木島くん」
市川は諭すように言った。
「政治というものは君が考えているようなきれいごとじゃない。地域の調和を乱すような真似は感心しないな」
それは忠告の形をとった紛れもない脅しだった。
「私はこの葉山の発展を三十年考え続けてきた。君のような若造が思いつきでかき回していい世界じゃないんだよ」
晴斗は何も言い返せなかった。現職の持つ圧倒的な存在感の前に金縛りにあったように体が動かない。
「まあせいぜい頑張りたまえ」
市川はそれだけ言うと運転手に合図した。黒塗りの車は滑るように走り去っていく。
後に残されたのは排気ガスの匂いと晴斗の無力感だけだった。
その夜、晴斗は佐伯のバーを訪れた。
カウンターに座るなり今日の出来事を報告する。市川との遭遇、そして自分が集めた「市民の声」が書かれたノートを見せた。
「佐伯さん。俺わかってきました。政治って法律とか予算とかそういう難しい話だけじゃないんですね。このノートに書かれていること一つ一つが全部政治なんだ」
興奮気味に語る晴斗を佐伯はいつもの無表情で見ていた。
「……それで? その声をお前はどうするつもりだ?」
「どうするって……市役所に働きかけます。公園のゴミの件なら環境課に、街灯のことなら道路管理課に……」
「馬鹿者」
佐伯は晴斗の言葉をぴしゃりと遮った。
「お前はまだ何もわかっていない。今の『無職の木島晴斗』が役所に陳情したところで門前払いされるのがオチだ。『ご意見として承っておきます』、その一言で終わりだ」
「じゃあどうすれば……」
「なぜお前は議員になろうとしている?」
佐伯の問いに晴斗ははっとした。
「議員になれば……その声に力を持たせることができる。議会という公式の場で市の責任を問いただすことができる。だから……」
「そうだ。そのノートに書かれている『生活の声』こそがお前の武器になるんだ。それは市川のような大物議員が決して拾うことのできない小さな、しかし本物の弾丸だ」
佐伯はカウンターの奥から一枚の大きな葉山市の地図を広げた。
「いいか。明日からはただ闇雲に握手をするな。お前が話を聞いた場所をこの地図に書き込んでいけ。街灯が切れている道、ゴミが散乱している公園。お前だけの『問題地図』を作るんだ」
政治は生活である。
晴斗が肌で感じ始めたその実感を佐伯は「武器」へと昇華させるための道筋を示してくれた。
晴斗は目の前の地図と自分のノートを交互に見つめた。
点と点だった市民の声がこの地図の上で線となりやがてはこの街の未来を変えるための「設計図」になるのかもしれない。
胸が熱くなった。
カウンターの数字はまだ目標に届かない。だがその一回一回の握手の意味が今はっきりと見えた気がした。
晴斗は力強く頷いた。戦い方はまだわからない。それでも進むべき道は確かに照らされていた。




