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凍る怒り





翌朝は寝不足のせいだろうか、頭の端が少し痛んでいた。

対照的に、すっきり目覚めたアリアが顔を洗いに行こうとキリトの手を取る。

その手を、寝ぼけてはっきりしない意識のまま暫く見つめ、若干眉を寄せた。

長い袖に隠れたいつもは見えない白い腕が、一瞬見えただけ。

その一瞬が見せたものに意識が段々と冴え、それに伴って眉間が寄る。


「キリ…」


どうしたの、と言いたげなアリアの目がはっと強張る。

たっぷりとした袖口に近づくキリトの手から逃れようと、アリアは腕を引いた。

渾身の力を込めたはずなのに、掴まれた手首は彼の掌中から抜け出せなかった。

キリトは恐る恐る掴んだ袖を、一呼吸置いてからぐっと捲り上げた。

あの一瞬で見えたものが、見間違いならそれで良い。

けれど。


「何…?」


呟いたのはキリトだった。

白い腕に残る細い痣の痕。

冷たい声の問いは、独白のようだ。

アリアは懸命に腕を抜こうと試みたが、足を踏ん張ってみても力の差は歴然だった。


「何だよ…、これ」


声が震えている。キリトはそれを自覚した。

鞭で打たれた痕は、彼女の腕にあって良いものではない。




四年も前の事。

今よりも未だ幼かったキリトは、たった一度だけ、迫害を止めない大人達に懇願した事があった。

雨中の仕事が無理を呼び、アリアが高熱を出した夜。


『仕事は一人でもやるから、アリアを打たないで』


アリアは再々熱を出す子供だった。身体が弱かったのだ。それでもアリアは働いた。

けれど、その時の熱は、呼吸もままならない程の高熱だった。

薬も無い、食べ物もろくに与えられない。

今にも死んでしまいそうで、恐ろしくなった。

アリアが死んでしまったら、待っているのは底の無い孤独の闇。




懇願は、聞き入れられているはずだった。少なくともキリトの中では。それは、思い違いだったようだ。

ほんの少しでも、大人を信じた自分が愚かだった。

彼らは勝国の人間で、二人は敗国の子供。

立場の違いも、力の差も、大人の卑劣さも、知っていたはずなのに。

無気力な目で白い腕に残る痣の痕を見つめながら、キリトは彼らを信じた己を恥じた。

何度も味わった絶望をまた感じ、その度に悔いているのにまた悔いる。

少し注意していれば気づけたはずなのに、今まで見逃していた。


「こ、転んだ…転んだの!」


アリアは見え透いた嘘を吐いた。

キリトは、彼女の嘘に奥歯を噛み締める。

じっと翠の目を見つめた。金の目に労りの色は無く、怒りだけが揺らいでいた。

滑稽な自分に、見え透いた嘘を吐くアリアに、愚かな大人達に、吐き出す場所の無い憤りが沸いた。

それを懸命に飲み込み、溜息で霧散させる。


「……そう」

「…うん、…転んだの」


いつの間にか、奥歯ではなく口内の肉を噛んでいた。

霧散し切れなかった怒りの欠片が柔らかな肉を噛み切って、鉄の味が広がる。

じわりと滲むその嫌な味は冷やりとした怒りを消すことは無く、静かに静かに、心臓の近くへ沁みこんでいった。




*************



アリアは、キリトが自分を庇っている事を知っていた。

差のなかった罰という名の折檻は、ある時期を境に格段と減った。

本当は自分だって手伝わなければならない仕事を、キリトは何だかんだと理由をつけて遠ざけるようになった。

重い荷物を運ぶのも、家畜の世話も、大工仕事も、全て一人で片づけてしまう。

その内アリアの仕事は食事以外の家事と畑の世話だけになった。

何をしてもキリトの足枷になっている。


ふわふわと出来上がる洗剤の泡の中へ、涙がぽたりと落ちた。

布を擦り合わせる両腕は細くひ弱で、どうしようもなく苛立った。

女でなく男生まれていたら、キリトに要らぬ心配や気遣いをさせる事もなかっただろう。

鎮まらない怒りを残したまま足早に小屋を去った後姿が瞼に焼き付いて離れない。

痛いと思うほどの思いやりを充分すぎるほど感じていたから、隠した傷跡だけは見られたくなかった。

鈍間で要領の悪いアリアは、キリトの傷を治せても自分の傷は治せない。

中々治らないそれを見られてはいけないから、隠す努力だけはしていた。その努力も、結局は無駄になった。生まれては消えるだけの運命にあるこの泡のように。

きっと酷く傷つけただろう。無理と無茶を続けながら、楽な仕事を回してくれていたのに。

互いに無駄な努力をしていたに過ぎなかった。

それに気づいた途端、途方もない虚しさを感じた。

弱さを象徴する涙が、柔らかく膨らんだ洗剤の泡の中へ落ち続ける。

私は泣くしか能が無いのだと自覚すると、余計に遣る瀬無くなった。



「ねぇ、ちょっと」


洗濯の手を止め、落ちる涙を茫然と眺めていたアリアは、突然の呼び掛けにびくりと肩を揺らした。

顔を上げるよりも早く、束ねた長い髪を掴まれ、ぐっと引き上げられる。

力一杯引き上げられる激痛に小さく呻いたアリアの手から、泡に塗れた布の塊が桶の中へ落ちた。


「あんた、何したの」

「…っ」

「ラズはあのガキに躾をしたって言ってたけど、おかしいわね。

 たった一日であんなに腫れが引くなんて。湿布なんて持ってないでしょう?」


女の目は冷たい。

他の孤児達に向ける目とは違う。嫌悪の目。この目の群れの中で生きてきた。

けれど、今日は少し違っている。強烈な嫌悪の中に、微弱な怖れの影。


「皆で話し合ったんだけど、やっぱりあんた達を生かしちゃおけないわ」

「お前らの命も今日限りだ」


そう言われて、アリアは全身の血が凍ったような寒気を感じた。

殺される事が怖ろしいのではない。


「キ、キリトに何したの?!」


いつ死んでも不思議ではない環境で育って来た。殺したいのなら殺せば良い。

自分が役に立たないのは自分で一番良く解っているから。

ただ、兄妹のように育ったキリトが死んでしまう事が何よりも怖ろしい。

髪を掴まれている事も忘れ、アリアは目の前の女に掴みかかって叫んだ。

女の目がはっきりと恐怖に歪む。


「触らないで!」


拒絶の叫びと共に殴られた頬は大きな音を立て、痛みを感じる前に目の奥が眩んだ。

髪の毛を掴み上げていた男が、平手打ちを合図にアリアを地面に叩きつける。

衝撃と唐突の痛みに悲鳴は出ず、怯える喉は空気を吸ってひゅっと音を立てた。

拭えない恐怖に戦慄く女は「悪魔の子」と叫び、アリアの全身は鞭で打たれた。

騒ぎを聞きつけた子供達の歓声や野次が曇って聞こえる。

痛みに麻痺する頭は、何も考えられなくなった。

倒れこんだまま身動きを取れないまま、再び髪を掴まれ無理矢理立たされる。

大きな男の手が腹を打ち、太腿を蹴った。悲鳴だけは、あげられなかった。

痛みの感覚さえ麻痺し始めているのに、叫び出したくて痙攣する喉を必死に堪える。

懸命に噛む唇に血が滲み、内臓が傷ついたのか喉の奥に血の塊が込み上げて来た。

今朝、キリトを傷つけた。これ以上傷つけてはいけない。迷惑も心配もかけてはいけない。

けれどきっと、このまま死ぬんだろう。どうせならあっさり殺してくれれば良いのに。

自分の身体が自分のものではなくなる感覚に、アリアはそんな事をぼんやりと思った。




*************



田舎町の孤児院は広大な敷地を持っている。町外れの丘一体が総じて孤児院。

飼われている家畜を広い柵で囲った牧場に放ったキリトは、呆けた目で雲の流れを見ていた。

穏やかな風が吹きぬけている。束の間の休息。

見上げる空に境は見当たらない。国も命も、感情も無い。

鳥は空を駆けるけれど、空は鳥を休ませず近づけさせはしない。

空はただ、そこに在るだけだ。


「転んだ」と嘘を吐いたアリアの表情を思い出した。

彼女は、嘘を吐いていますと素直に顔に出して嘘を吐く。ずっと小さな頃からそうだった。

嘘を吐ける程器用ではないし、性分ではないのだ。

それなのに嘘を吐くのは、決まって自分を庇うか立てるかする時。

そんなアリアが少しでも生き易いようにと努力をしていたつもりだった。

それも所詮は子供なのだと思い知らされただけだ。

狭い視野しか持たないせいで、自分の目に映る範囲だけで満足出来る。


早く、大人に成りたかった。

少なくとも、アリアを傷つけず、泣かせない人間になりたい。

悶々と湧き上がる、やはり子供染みた願望に溜息を吐いた。

キリトは、はるか上空を悠然と流れる雲に向かって手を伸べた。

穏やかに吹く風が、一瞬その手の周囲に密集する。

彼がそれを自覚する直前、一頭の仔山羊が甲高い声で鳴いた。


仔山羊の鳴き声は今までに聞いた事が無い類のもので、キリトは大きく肩を震わせた。

先月生まれたばかりの、アリアが一番可愛がっている仔山羊だ。

真っ白な仔山羊は奇声を上げながら柵の中をぐるぐると走り回り、ついには成獣でも超えられない高さの柵をびょんと飛び越えてしまった。

キリトは暫く呆気に取られていたが、弾かれたように後を追う。


「何だよ!」


仔山羊一頭でもいなくなれば大問題だ。キリトは舌を打って駆ける。

風の塊がぐいぐいと背を押して、幸いにも仔山羊の姿を見失うことは無かったけれど。

当の仔山羊は発狂してしまったのか、広大な敷地の中を走り回りながら大声で鳴き続けていた。



「悪魔の子なんて死んじまえーっ」


と、仔山羊を追うキリトの耳に、自分達とは対極の扱いを受ける孤児達の声が聞こえてきた。

言葉と共にけらけらと楽しげな笑い声が上がり、今時分ならアリアが洗濯物を干している裏庭が仔山羊を追う視界にちらりと見えた。

物干し竿にはタオルの一枚も干されていない。


「こーろーせ!」

「悪魔の子ーっ」


聞こえてくる言葉は、明らかにアルラスト人に向けられる罵声。

嫌な予感と不審さに足音を忍ばせて近づくキリトの耳に、鞭を打つ音がはっきりと届いた。

その脳裏に仔山羊の存在は無い。


「どうして院長はこんな屑達を拾ったの」

「ある程度育てば、物好きにでも売って金になると思ったんじゃないのか」

「売春宿だって悪魔の一族なんて買わないわよ。

 国の研究室だって一種の事はタブー視してるのよ。研究材料にもならないって事でしょ」

「マインドコントロールでもして兵器にすりゃあ良かったんだよ。

 他国に攻め入るには最強の兵器だろうによ」

「それが出来なかったから国は研究から手を引いたって話よ。

 こんなもの飼ってたって、一文の得にもならないんだから。

 もう遊びは良いでしょ。早く殺して。気分が悪いわ」


数本の足の中から、白い腕が見える。

暫く立ち尽くしていたのは、目前に広がる光景を信じたくなかったからだ。

うつ伏せに倒れたアリアの近くの青い芝生に、赤い液体が付着していた。

野次の中から聞こえる話し声。キリトの耳は女の放った一言だけを捕らえた。

彼女は、「殺せ」と言った。倒れてぴくりとも動かないアリアを。



血が、音を立てて引いた。確かにその音が耳の奥に響いた。

男が取り出した刃の長いナイフが陽光に反射して煌く。


「アリア!!」


ごお、と、巨大な風の塊が孤児院の背後に広がる森を激しく揺らしながら、キリトの周囲に密集した。

暗い森の木々が吹き抜ける風に大声で唸り、孤児院の壁や屋根は巻き上がる鎌鼬に切り刻まれていく。

野次を投げていた子供達の無垢な笑い声は悲鳴に変わり、切れていく肉や、四肢の一部が千切れてしまった激痛に床を転げた。

アリアを取り囲んでいた大人達も、何が起こっているのか分からないまま肢体を抉られて倒れていく。

牙を剥く風の猛威の中、アリア一人が優しい風に包まれていた。

柔らかな風の結界は彼女の傷を癒し、痛みを吸い取っては外へ吐き出した。

吐き出された痛みが新たな鎌鼬となって地面を抉る。

長閑な風景の中に佇む孤児院は、一変して恐怖の渦に飲まれた。


「っああぁぁああ!!!」


キリトは叫んだ。

身体中の血液が沸騰し、中心で爆発したような感覚。叫ばないと、身体が破裂しそうだった。

叫び続けるキリトの周囲に幾つもの火の玉が生まれる。

暴れる風は更なる暴風を呼び、森は怖ろしい唸り声を一層大きくした。

皮膚のすぐ内側を這う熱に痛みを感じ、再び叫び声を上げると、揺れていただけの火の玉は炎の舌を広げ地面を舐める。

ボツボツと音を立て新たに生まれた火炎球は弾丸のように草を掠って疾り、倒れて呻く人間や建物、植物に判別無く打つかって砕け散った。


憎悪が広がって怒りを滾らせる。

キリトは全てが憎かった。アリア以外への憎しみは、自覚するよりも降り積もっていた。

見上げていた空も、国という下らない括りも、自分さえも。昔から、アリア以外が憎くて堪らなかった。

怒りと哀しみが収まらない悲痛な叫び声を合図に、地面から生えた炎柱がキリトを囲う。

空までも焼こうと、高く伸びて不気味な轟を響かせた。

全てを喰らい尽くそうと燃える炎の音は哂い声に似ている。

かつては国境の町だった田舎町の外れは、燃え上がる炎に赫く染まった。





「…キリト…?」


柔らかな風の中で目覚めたアリアは、周囲の惨状に呆然とした。

家や芝生、木々を燃やす炎と爆発の音、それを煽るように吹く暴風の刃。

全てを殺すために生まれたそれらは、アリアをすり抜けている。


「ああああああ!!!!!!!」


キリトの哀しみと憎しみと怒りを混ぜた叫び声が聞こえ、呆然とするアリアの心を引き裂いた。

少し離れた位置に彼はいた。火柱の中、頭を抱えて叫び続けている。

その声は、アリアの耳に泣いているように聞こえた。


「キリト!」


ついさっきまで暴行を受けていた事も忘れ、アリアは夢中で炎の中へ飛び込んだ。

首に縋りついてぎゅうと抱きしめる。抱きしめた身体は、体温が異常に上がっていた。


「ごめ、ごめんなさ、ごめんなさい…っ」


絶叫とは反対にキリトの金色の眼は虚ろだった。

アリアの姿を映してもそれは鏡のようで、捉えてはいない。


「私、大丈夫、大丈夫…だから…っ」


きっと追い詰めてしまったのだ。果ての果てまで。タイミングが悪かった。

世界も、時間も運命も、とことん二人を嫌っているように思えた。

アリアの翠の目から大粒の涙が零れ、ぽろぽろと落ちてはキリトの肌に染みていく。

炎の轟音と風の唸りに混じって、逃げ惑う人々の狂乱とした叫びと泣き声が微かに聞こえた。


「キリト!戻って!!」


キリトの叫び声が収束し、アリアは彼の頬を両手で押さえつけると声を張り上げた。

曇っていた目が見開いて、身体がぐらりと傾く。キリトは短く咳き込んで、そのまま地面に倒れた。

暴れていた風はぴたりと治まり、新しい炎も生まれなくなったが、広がった火の手は燃え盛り、大きな孤児院を喰い続けている。

アリアを包む風だけが消えなかった。



暴走した力が与えた疲労に気絶してしまったキリトを抱え、アリアは孤児院の裏手、死の森の手前にある小さな泉を目指した。

風に守られているから焼け焦げる庭を歩くこと自体は楽だった。

靴の底も身体も大した熱を感じないし、広がり続ける炎はアリアを避けている。

けれど、自分とほぼ変わらない身長の少年を抱えて進むには、アリアの両腕はか弱すぎた。

僅かな距離を歩いただけで既に痺れを感じている。

殆ど引き摺る形で進み、さほど離れていないはずの泉についた頃には、両腕は痺れが切れ感覚が麻痺していた。


「お願い、助けて、お願い…!」


キリトごと水に浸かり、止まらない涙に咳き込みながら泉に懇願する。

アリアを包んでいた風はゆるりと離れ、気を失ったままのキリトへと移った。

泉の水面がアリアの声に応じるように揺らめいている。ただの波紋にも見えるそれをアリアは応と取り、キリトを抱えていた腕をそっと離した。

キリトの身を包む風の援助を受諾した水は、彼を水底へと沈めなかった。

燃え上がる孤児院の柱が崩れ落ち、生木の爆ぜる音が響いている。

丘から少し離れた本街から、消防の警鐘が微かに聞こえた。


「ありがとう…」


急がなければならない。

もう少し経てば、人の群れがここへ辿り着くだろう。

燃え上がる火の手を消し、死体を集め、そして犯人を捜し始める。

そうなる前にここを離れなくてはならない。

焦りながらもそっと礼を言うアリアを、泉の水は静かに抱き寄せて水の深みへと誘った。

アリアは抵抗せず、彼女は見る見る内に水中へ沈んだ。


記憶の中で、アリアは幼い頃から水と相性が良かった。

それを使って傷を癒せると知ったのはつい最近の事。

正しい使い道は分からなかったけれど、それが僅かでもキリトの助けになるならそれで良かった。

本質も実質も知らないから、中々思い通りには扱えなかったが。

そんな事を思い出しながら、アリアの意識は段々と薄れて行った。

意識が薄れるのと引き換えに、身体は水中で薄い膜に覆われ淡く光り始める。

深い青緑の底で輝く光は細い帯に成って、キリトの熱された身体に巻きついた。

水の糸は数を増やし、やがて全身を覆う。

さして時間もかからない内に、キリトの滾っていた体温は少しずつ下がり始めた。




「う…」


身を包む柔らかな冷たさに、キリトは身じろいで目を開けた。

身体が酷く重い。虚ろな目で上空の風景を見つめる。

空は夕焼刻のように赤く、その赤の所々に真っ青な本当の空が見えた。


「…ア、アリア?!」


空を覆う異常な色をぼんやりと眺めていたキリトは、鞭打たれていたアリアを思い出して飛び起きた。

水がぱしゃんと大きく撥ね、水中で身体を支えていた風がするりと流れて消える。

急に起き上がったものだから、水に足を取られてふらつき、思わず支えを探す自分の手が視界に入った。水に浸かっている左手、空気に触れている右手、そのどちらをも微光が覆い、それは水中の奥深くへと続いている。

光は細い糸が密集したようなものだった。

周囲にアリアの影は無い。不安に駆られ、光の束を目で辿る。

炎の色を揺ら揺らと映す水面のずっと底、微かに金色が見えた。


不安に騒々と鳴る心臓をそのままに、キリトはよろけながら水を撥ねて走った。

浅瀬から突如深瀬に変わった足が沈み、身体は水底に引き摺られる。

半ば溺れながらも揺蕩う細い腕を見つけ、力任せに引っ張った。

無我夢中でアリアを水中から引き上げ、呼吸を整えようと座り込んだキリトは、ふと違和感を覚えた。

アリアの服は傷ついて所々破れており、血痕も微かにある。

けれど、彼女の身体には傷も痣も無かった。

そろそろと袖を捲くった自分の腕にも、さっきまであったはずの痣痕と鬱血は無い。

十年分の傷痕が、二人の身体から綺麗に消えていた。


「お前…」


激しい怒りと憎悪に飲み込まれた記憶が蘇り、腕が震えた。

いつか芽生えたなら、此処を逃げ出す武器にしようと考えていた力は、確かに在った。

アリアを生かすために、彼女以外の全てが滅べば良い。

あの時の痛切な願いと呪いは、常々抱えていたもの。

生まれついてキリトに在った力は、それを叶えようとした。

自身すら焼き尽くそうとした力の暴走を止めたのは、他でもないアリアだ。

焼けるような熱を持ったキリトを怯む事無く抱き、頼りない華奢な腕で此処まで運んだのだ。

そして彼女もまた、自分の身を省みずに、キリトの傷を癒そうとした。

意識を手放す刹那に聞こえたアリアの悲哀に満ちた声と、痛切な瞳を思い出した。

胸が、ギリギリと痛む。



水底に沈んでいたはずのアリアは、水を飲んではいないようだった。

目を開けないのは、二人の外傷を全て癒した急激な疲労のせいだろう。

結局は、アリアに救われた。いつもの事だ。それを恥じる。

誰にも頼らず、確実に彼女を守れるようになりたい。

子供染みていると自覚する願いだけが、どんどん強くなる。


喰らう対象を失った炎が、哂い声を小さくさせ始めていた。

街人の微かな騒めきが風に乗って耳に届いた。

眠るアリアを抱えたキリトは、迷わずに死の森へと足を向ける。

大陸の周囲を海で囲われたこの島国から逃げ出すのは、きっと想像以上に困難だろう。

薄っすらとそんな事を考えながら、抱き上げたアリアの軽さに悲しくなった。



「…死んだって、良い…」


唸りを止め、今は穏やかな声で二人を迎える森に踏み込みながら、キリトはぽつりと呟いた。

言葉にしなければ、この覚悟は夢想のまま終わるような気がした。

背負った一つの重い命が生きられるのなら、自分の軽い命など消えても構わない。

間違った覚悟を信念と信じる少年の微かな呟きを聞いた風が、柔らかく物悲しげに彼の頬をそっと撫で、音もなく空に溶けた。





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