最後の夢
―― 一年後
「キリト、痛い…?」
アリアは恐る恐る声をかけた。
無言のまま首を横に振るキリトは、先程からずっと仏頂面だ。
屈強とは言えない腕に、腫れ上がった蚯蚓腫れが幾筋もあった。
アリアはその痛々しい傷痕に胸が詰まり、翡翠色をした大きな目に涙を溜める。
それをふるふると頭を振って払い、桶に汲んだ水に手首まで浸けた。
桶底に触れた手の平から糸のような光が溢れて纏わりつく。
それを見届けてから、アリアは桶から手を出した。桶の水量が少し減っていた。
少し怖じながら、水の光を纏った指先でキリトの傷を一つ一つ辿る。
膨れ上がった皮膚が弾かれたように痛み、キリトは一瞬顔を歪めたが、それはすぐに引いた。
腫れも僅かに薄くなっている。
「ありがと」
不機嫌なままの声が告げるぶっきらぼうな礼に、アリアは悲しみを残した目で微笑った。
二人が声を潜めて話すのは、場所が孤児院に隣接された家畜小屋だからだ。
五年前に部屋だと割り当てられたが、少しでも大声を出すと途端に物が飛んで来る。
小声で話すのは、孤児院に拾われたこの十年間で癖になっていた。
「今日は、どうして…」
痛みの和らいだ腕を擦るキリトにアリアはおずおずと問いかけたが、すぐに口を噤んだ。
鞭で打たれる理由など、訊かなくても判っている。判りきっていた。
また自分に原因があったのだ。そう思いついて言葉を呑んだアリアは、柔らかな唇をきゅっと噛む。
黙って俯いてしまったアリアに、キリトはふんと鼻息を吐いた。
「いつもと同じ、生意気なんだってさ」
理不尽な暴力に怯えていたのは、拾われてからの数年間だけ。
今は成長と慣れも伴ってか、鞭を振り上げる大人に滑稽な可笑しさすら感じている。
昼間、鞭を振りかざした男も、眼の奥に確かな怯えを宿していた。
それを思い出したキリトは、声を出さずに嘲笑う。
「…、う…ぇっ」
「…泣くなよ」
多分、生まれた時分から一緒にいるだろうアリアの嗚咽に、ぎくりと肩が強張った。
幼い頃から、彼女の涙がどうにも苦手だ。
あやすように金色の髪を梳く。
二人は、自身の出生やルーツの詳細を知らない。
以前、一緒に拾われたのだから兄妹かもしれない、そう思いつき互いの容姿について言い合った事がある。
キリトの髪は冷えた銀、アリアは淡い陽光に似た金で、目の色も金と翠と全く違っていた。
散々言い挙げ合った結果、「同人種だけど多分兄妹じゃない」と言う結論に達したが。
キリトにはアリアが妹同然で、アリアもまたキリトを兄のように慕っている。
二人一緒に拾われたのだから、戦争が起こる前から付き合いはあったのだろう。
そんな事を思い出しながら、アリアの頭を撫でていた腕を引っ込める。
それを合図に嗚咽をやっとの思いで飲み込んだアリアは、目の淵に残っている涙を拭った。
「もう寝よう。疲れただろ」
「でも…」
「でも、じゃない」
また泣き出しそうな目を牽制するために言葉を遮り、「あ」と呟いてニヤリと笑んだ。
切れ長の大きな目が底意地の悪い形に歪んでいる。
アリアはおず、と眉を寄せ、僅かに顎を引いた。
「俺、今日見たんだよね」
「なに、を…?」
十年間、二人は片時も離れずにいた。
きっと、一人きりだったら、こんな場所で十年も生きてなどいられなかっただろう。
二人はずっと助け合って生きてきた。
だから、何よりも苦手な彼女の涙がどうすれば止まるかを知っている。
「皿、二枚割った」
「え…っと」
「しかもそれ、裏庭に埋めてた」
「!!」
偶然目にした彼女の奇行をひそひそと口にする都度その時の光景を思い出し、可笑しくなったキリトは努めて声を殺しながら笑った。
自分が笑えばアリアは笑う。キリトはそれを識っていた。
どんなに悲しくても辛くても、キリトが腹の底から笑えば、アリアはつられて涙を忘れる。
押し殺したままの声で笑うキリトを、アリアは暫く恨めしそうに睨んでいたけれど。
彼の収まっては吹き出す笑い声につられて、ついにくすくすと笑い始めた。
「いい加減に寝よう」とキリトは言ったが、日干しした飼葉と擦り切れた毛布に包まっても、二人は暫く笑っていた。
赫い。
またか、とキリトは夢中で溜息を吐いた。
強烈な赫だけが印象に残るこの夢を初めて見た時こそ怯えたものの、それが一年近く続けば嫌でも慣れてしまう。
疲れた身体はすぐに真っ暗闇へ落ちていくはずだ。
その期待は、あっさりと裏切られてしまった。
今回は夢の様子が少し違っている。今までは「赫」という色と漠然とした感覚のみだった夢が、一層リアルになっていた。
ぼやけたイメージでしかなかった風景がはっきりと形を持って広がっていた。
燃え上がっているものは孤児院だった。その背後に佇む、死の森という通称しか知られていない原生林までもが克明に描写されている。
昼でも奥の様子が見えないほど暗い森は、低い声で唸っていた。
血液は沸騰していて、恐らく髪の毛は逆立っている。
夢の中で叫ぶ度、炎柱が生まれて空を覆った。鋭い風は吹き荒れていて、周囲の物を薙いでいる。
これは怒りだ。
キリトは確信した。
強烈な怒りの声。死の森も、叫び続ける自分も、赫く塗りつぶされていく夢の総てが憤っている。
その怒りに飲み込まれそうになった。
身体が発火したように熱い。
キリトは、一年前と同様に飛び起きた。
汗が吹き出ていて、ひやりとした夜風に身体が震えた。
息は上がり、腕は寒さではなく、恐れと興奮に震えている。
「…あれは、」
現実。
恐ろしくて、口に出来なかった。
早鳴ったまま落ち着かない心臓を押さえ、額の汗を拭いながら小さな窓を見上げる。
満月の一部が小窓の端に覗き、点在する通気口を兼ねた小窓から、月光が柱のように室内を照らしていた。
暫く呆けた目で窓を見上げていたが、ふと目を逸らすとあの日のようにアリアの淡い金髪が目に留まった。
ほう、と息を吐き、あれは現実ではなく夢だと言い聞かせる。
内容の同じ夢など、これまでこの夢以外に幾つも見てきたじゃないか。そう思い込みながら、干草の中へ無気力に倒れた。
言い聞かせても脳裏に張り付いて剥がれない夢から意識を遠ざけようと、月光に煌くアリアの長い髪を取って遊ぶ。
作っては解く細い三つ編みを幾度目かに解く途中、キリトは漸く真っ暗なだけの眠りの世界へと落ちていった。
赫い夢を見るのはこれが最後だ。
彼のその望みは、確かに叶う事になった。




