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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第90話「アリシアの戦い」


西方古都の大会会場は、かつてない静けさに包まれていた。


最終戦の調理台に立つのは、王女でありながら料理人の道を選んだ一人の女性——アリシア。その手には解毒スープの小鍋が握られている。対戦相手は残香の使い手サジョウ。彼女は今日、薄絹を外していた。現れた素顔は青白く痩せこけ、唇だけが紫色に染まっている。長年、残香の煙に身を浸し続けた者の顔だった。


「私は“残香の権能”を継ぐ者——かつて神に封じられたこの力を、世界に解き放つ。そのためには——解毒のスープを使う娘、あなたが邪魔だ」

「なぜ、味を歪めようとするのですか」

アリシアが静かに尋ねる。

「世界の味は不完全だ。甘いものは腐り、酸っぱいものは溶け、苦いものは毒となる。それならば——すべてを同じ香りで包み、苦しみを消し去るべきだ」

「それは——味を奪うことと同じです。私がかつて、毒で味覚を失った時のように」

「だったらなぜ、あなたは味を取り戻した」

「誰かが、私のために料理を作ってくれたからです。温かくて、優しくて——もう一度、生きたいと思わせてくれた。だから私は——今度は私が、誰かの味覚を呼び覚ましたい」


サジョウは答えず、香炉に手をかけた。今日の香炉はひときわ大きく、中からは紫色の煙がとぐろを巻いて溢れ出している。観客席から悲鳴が上がり、審査員たちがたじろいだ。しかしアリシアは動じない。小鍋に火をかけ、持参した薬草と柑橘の皮、それから師匠から教わった無味砂漠の岩塩を並べる。


「解毒スープは本来、毒を抜くためのものです。でも——私はこのスープに、もう一つの力を込めてきました。“味覚を呼び覚ます”力です。味を失った者が、もう一度味を感じられるように——」


薬草を刻み、柑橘の皮をすりおろし、岩塩をひとつまみ。鍋から立ち上る湯気は清涼で爽やかだ。彼女の「目覚めの養生スープ」は、彼女自身が毒の苦しみから目覚めた経験を、一椀のスープに変えたものだった。


「これが——私の味です」


その瞬間、サジョウの香炉から紫色の煙が爆発的に広がった。煙は会場全体を覆い尽くし、観客たちが次々に咳き込み、口元を押さえる。甘ったるい腐臭がすべての料理の香りを塗り替え、審査員の舌さえも麻痺させていく。


しかし——アリシアの鍋から立ち上る湯気だけは、紫色の煙を押しのけて、まっすぐに立ち上っていた。柑橘の爽やかな香りと薬草の清涼な匂いが、煙の幕を破り、審査員たちの鼻に届く。


「……匂いが、する。甘ったるい煙の中で——爽やかな匂いが」

審査員の一人が呟く。

「これは——味覚が呼び覚まされる匂いだ」


サジョウが香炉を握りしめ、さらに煙を濃くする。しかしアリシアのスープの香りは消えない。むしろ、煙が濃くなるほどに、その清涼な香りは際立っていった。毒の中でこそ輝く解毒の力——それが、彼女のスープの本質だった。


「なぜ——なぜ私の残香が、通じない」

サジョウの声が震える。

「私は——毒に苦しんだ過去を、このスープに込めました。苦しみを知る者だけが、苦しみを癒せる。師匠が教えてくれたことです」

「苦しみを——癒す」

「あなたも——苦しんでいるのですか」


サジョウの手が止まった。香炉の煙がゆらりと揺れ、紫色の帳が薄れ始める。

「……私は、ただ——味を歪めることしか、知らなかった。生まれた時から、残香の権能に取り憑かれ、誰も私の料理を食べてくれなかった。歪んだ味しか作れない私は——誰にも、愛されなかった」

「では——これを飲んでください」

アリシアは小鍋からスープをよそい、そっと差し出した。

「私のスープは、歪んだ味覚を呼び覚ますためのもの。でも、それだけじゃない。誰かのために作ることで、初めて力を持つ」


サジョウは震える手で椀を受け取り、一口すする。次の瞬間——その紫色の唇が、かすかに赤みを取り戻した。


「……温かい。酸っぱくて、しょっぱくて、爽やかで——それから、少しだけ甘い。これが——本当の味」

「はい。あなたがずっと知りたかった味です」

「私は——今まで、何を」


サジョウの目から涙がこぼれ落ち、手にした香炉が床に落ちて砕け散った。紫色の煙が晴れ、会場を覆っていた甘ったるい腐臭が消えていく。代わりに、アリシアのスープの清涼な香りが、ゆっくりと会場中に広がっていった。


審査員たちが次々にスープを完食し、口々に評価を述べる。

「味覚が——完全に戻った。それどころか、以前より鮮やかに感じる」

「これは解毒スープを超えた——“目覚めのスープ”だ」

「残香を完全に打ち破った。勝者は——アリシア」


会場から割れんばかりの拍手が湧き起こった。シノとリクが控え室から飛び出し、涙をぬぐって叫んでいる。グレゴールが深くうなずき、エレナが無言で拍手を送った。


サジョウはアリシアの前に膝をつき、深く頭を下げた。

「……私は、これからどうすれば」

「一緒に来ませんか。私たちには師匠がいます。屋台があります。そこで——もう一度、料理を作りませんか」

「私にも——作れるでしょうか」

「作れます。誰かのために作る料理は——誰にでも作れます」


サジョウは涙に濡れた顔を上げ、かすかに微笑んだ。それは彼女が初めて見せた、心からの笑みだった。


数日後、王都の屋台に最後の便りが届いた。


グレゴールからの封書は、アリシアの勝利と、サジョウが屋台を訪れたいと願っていることを簡潔に伝えていた。そして末尾に、こう記されていた。


「弟子三人、全員が決勝まで勝ち進みました。結果は——シノ、三位。リク、二位。アリシア——優勝です」


屋台にどっと歓声が湧き起こる。将軍が粥の鍋を掲げ、ヴァルケンたちが拳を握り合い、常連客たちが飛び上がって喜んだ。


リリアが焼きおにぎりをかじりながら、少しだけ目を潤ませて言った。

「あの三人が——優勝だってよ」

「ああ」

「泣かないのか」

「泣かない。弟子の晴れ舞台で師匠が泣くわけにはいかない」

「……強がりだな」

「強がりで結構だ。でも——嬉しくないわけじゃない」


リリアは答えず、ただ焼きおにぎりの最後の一口をかみしめた。


その夕方、屋台の看板に新しい紙が貼られた。


『弟子たち、大陸料理大会 シノ三位、リク二位、アリシア優勝。——師匠より』


常連客たちが紙を読み、歓声を上げ、将軍が粥の大盛りを振る舞い、夜遅くまで祝勝会が続いた。カウンターの隅の小さな扇子が、かすかに風に揺れている。


遠く西の空で、星が一つ、静かに瞬いていた。弟子たちが帰ってくる日は、近い。


(第90話 終)


▼ 次回予告(第91話用の引き)


大陸料理大会を終え、弟子たちが王都へ帰還する。シノ、アリシア、リク——それぞれが胸に大会での経験を抱え、一回り成長した姿を見せる。そして彼らと共に、一人の女性が屋台を訪れる。

(次話:「帰還」)

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