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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第89話「シノの卵かけご飯」

リクの勝利から一夜明け、大会会場にはさらに多くの観客が詰めかけていた。残香の使い手サジョウが現れて以来、大会は単なる料理競争ではなくなっている。味を歪める力に立ち向かう若き料理人たち——その姿を一目見ようと、古都中から人々が集まっていた。


控え室で、シノは母の形見の包丁を研いでいた。刃はすでに完璧な輝きを放っているが、研ぐ手が止まらない。研ぐことに集中していないと、胸の奥がざわつくからだ。


「シノ、大丈夫か」

グレゴールが静かに声をかける。

「……大丈夫です。リクがあんなに頑張ったんだ。俺も——負けられない」

「お前の卵かけご飯は、もうお前だけの味だ。師匠の真似でも、母さんの真似でもない。自信を持て」

「……はい」


アリシアがそっと包丁を置き、シノの隣に座った。

「シノ、私、あなたの卵かけご飯が大好きよ。最初に屋台で食べた時から——あの温かさに、何度も救われた」

「アリシア——」

「だから、大丈夫。あなたの味は、きっと届く」

「……ありがとう」


リクも鉄鍋を抱えて駆け寄る。

「シノ兄さん!俺、勝ったから——次は兄さんの番だ!」

「ああ。見ててくれ」

シノは包丁を握り直し、調理台へと歩み出した。


試合開始の銅鑼が鳴る。シノの前に並ぶのは、卵、醤油、炊きたての白米、それからリクから分けてもらった東方のアオサの粉末。それだけだ。彼の「潮風の卵かけご飯」は、シンプルであるがゆえにごまかしがきかない。


白米を茶碗によそい、卵を割る。卵黄だけを慎重に取り出し、白身はほんの少しだけ残してふわりと混ぜる。アオサの粉末をご飯に混ぜ込み、醤油を一滴。卵黄をそっと中央に落とし、刻みネギを散らして——完成だ。


「“潮風の卵かけご飯”——俺の味です」


その瞬間、サジョウの香炉から紫色の煙が立ち上った。リクの試合の時より濃密で、会場全体を包み込むほどの甘い腐臭が漂う。煙は意志を持つかのようにシノの茶碗へと流れ込み、卵黄の輝きを曇らせていく。


「——これが、残香」

シノは茶碗を見つめた。甘ったるい匂いが、卵の香りと醤油の香ばしさを塗り替えようとしている。審査員たちの表情が曇り、観客席に失望の声が広がり始めた。


シノの手が震える。母の包丁を握る手に、冷たい汗が滲む。でも——彼は茶碗から手を離さなかった。代わりに、もう一度だけ醤油を一滴、卵黄の真横に垂らす。それは無駄な行為に見えたが——彼の師匠がいつもやっていたことだ。どんな時でも、最後にもう一度だけ、味を信じるための一滴。


「母さん——俺、料理人になれたよ。これが、俺の卵かけご飯です」


醤油の一滴が卵黄と混ざり合い、アオサの粉末と共に潮の香りを呼び覚ます。紫色の煙がゆらりと揺れ、卵黄の輝きが徐々に戻り始めた。甘ったるい腐臭が引き裂かれ、潮の香ばしさが再び立ち上る。


「残香を——破った。ただの卵かけご飯で——」

サジョウの声が震える。香炉の煙が乱れ、彼女は一歩後退した。


審査員の一人が恐る恐る茶碗を口に運ぶ——次の瞬間、その目が大きく見開かれた。

「卵の甘みと、潮の香り——それから、醤油の香ばしさ。これほどまでに調和した卵かけご飯を食べたことがない」

「味が——歪められたのに、それでも伝わる。これが、料理の芯というものか」


結果は——シノの勝利。会場から万雷の拍手が湧き起こった。リクとアリシアが控え室から飛び出し、涙をぬぐって叫んでいる。


サジョウは薄絹の奥で何かを呟き、香炉を手に会場を後にしようとした。しかし去り際、彼女は一度だけ立ち止まり、控え室のほうを見た——そこには、次の試合を待つアリシアの姿がある。


「……次は、あの娘か。解毒スープの使い手——あれが三人の中で最も危険だ。あの娘だけは——私の残香が通じないかもしれない」


彼女の呟きは誰にも聞こえなかったが、サジョウの目が初めて不安に揺れたのを、グレゴールだけが静かに見つめていた。


数日後、王都の屋台に第三の便りが届いた。グレゴールからの手紙には、シノの勝利と、サジョウが次戦でアリシアと直接対峙する可能性が記されている。


「アリシアが最後か」

リリアが手紙を覗き込む。

「ああ。サジョウは解毒スープを警戒しているようだ」

「警戒するってことは——」

「アリシアの味が、残香に対してもっとも強い力を持っている。歪められてもなお、味覚を呼び覚ます力——サジョウが最も恐れているのは、それだ」


「アリシアなら大丈夫さ」

「ああ。あいつは——自分の毒を乗り越えた料理人だからな」


カウンターの隅の小さな扇子が、かすかに風に揺れている。弟子たちの最後の戦いが、まもなく始まる。


(第89話 終)


▼ 次回予告(第90話用の引き)


サジョウの本当の狙いがついに明かされる。「私は“残香の権能”を継ぐ者——かつて神に封じられたこの力を、世界に解き放つ。そのためには、解毒のスープを使う娘が邪魔だ」

アリシアの最後の戦いが、今始まる。

(次話:「アリシアの戦い」)

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