第88話「リクの戦い」
西方古都の大会会場は、異様な静けさに包まれていた。
中断を経て再開された試合の組み合わせが発表され、観客席は固唾を呑んで見守っている。調理台に立つのは、東方の漁村から来た一人の少年——リク。手には母の形見である鉄鍋が握られていた。対戦相手は西方の若手料理人だが、観客の関心は別のところにあった。会場の隅に、一人の女が立っている。
黒衣に身を包み、顔は薄絹で隠されている。手には小さな香炉が握られ、そこからかすかに甘い煙が立ち上っていた。残香の使い手——サジョウ。彼女が現れて以来、いくつもの料理がその煙によって味を歪められ、敗れ去ったという。
「リク、大丈夫か」
グレゴールが控え室で声をかける。
「……大丈夫です。師匠に教わったこと、母さんの味——それを信じます」
「よし。行け」
リクは深くうなずき、調理台へと歩み出した。
試合開始の銅鑼が鳴る。リクは鉄鍋に湯を沸かし、持参した干し魚とアオサ、それから東方の米酢を並べた。彼が作るのは「東方潮騒の味噌汁」——初戦で高評価を得た、母の味を再現した一椀だ。
干し魚をほぐし、アオサの粉末を加え、潮の香りを引き出す。味噌を溶き入れ、米酢をほんの一滴。酸味が全体を引き締め、魚の旨味と味噌の甘みが絶妙に混ざり合う。
「できた——“東方潮騒の味噌汁”。母さんの味です」
審査員が一斉に椀を手に取ろうとした、その瞬間——サジョウの香炉から、紫色の煙が立ち上った。煙は意志を持つかのように調理台へと流れ、リクの鍋を包み込む。甘ったるい残り香が、潮の香りを塗り替えようとしていた。
「——これは」
リクは鍋を見つめた。潮の香りが消え、代わりに甘い腐臭が立ち上り始めている。審査員たちの表情が曇り、観客席から失望の声が漏れた。
「またか」「味が歪められた」「もうだめだ」
リクの手が震える。鉄鍋の中で、母の味が失われていく——。
その時、リクの脳裏に浮かんだのは、師匠の言葉だった。
「味の芯は消えない。歪められても——その芯さえあれば、味は必ず戻る」
「俺の味の芯は——」
リクは鍋にもう一度向き合い、最後に残った東方の米酢を一滴、鍋に落とした。酸味が全体を引き締め、甘ったるい残り香を切り裂く。そして隠し味に持っていた無味砂漠の岩塩をほんのひとつまみ——潮の香りが、再び鍋から立ち上り始めた。
「母さんの味は、甘ったるい香りなんかに負けない。師匠が教えてくれた——味の芯さえあれば、どんな歪みも乗り越えられる!」
鍋の湯気が紫色の煙を押しのけ、本来の潮の香りが会場に広がっていく。審査員たちの表情が変わった。一人が恐る恐る椀を口に運び——目を大きく見開く。
「潮の香りだ……甘い煙を突き破って、確かに潮の香りがする。それに——酸味が全体を引き締め、魚の旨味が生きている」
「味が——戻っている。歪められたのに、それでも味が伝わってくる」
サジョウの手が、かすかに震えた。香炉の煙が乱れ、彼女は一歩後退する。
「……残香を、破った」
かすれた声が薄絹の下から漏れる。
「ただの少年料理人が——なぜ」
リクは鉄鍋を抱きしめ、真っ直ぐにサジョウを見据えた。
「俺には師匠がいる。母さんの味がある。だから——負けない」
審査員全員がリクの味噌汁を完食し、次々に評価を告げる。
「味の芯が確かだ。残香に負けぬ、見事な一椀」
「潮の香りと酸味の調和——これは東方の新しい味だ」
結果は——リクの勝利。会場から割れんばかりの拍手が湧き起こった。
サジョウは薄絹の奥で何かを呟き、香炉を手に会場を去っていく。その背中を見送りながら、リクは静かに鉄鍋を胸に抱いた。
「母さん——俺、勝ったよ」
控え室に戻ると、シノとアリシアが待っていた。
「リク、すごいじゃないか!」
「残香を破るなんて——あなた、本当に成長したのね」
「ありがとう。でも——これは俺だけの力じゃない。師匠と、母さんと、みんなのおかげだ」
グレゴールが静かにうなずき、エレナが無言でリクの肩を叩く。ゴルドアとマクシミリアンは会場の警備を続けながら、かすかに微笑んでいた。
数日後、王都の屋台に第二の便りが届いた。
グレゴールからの手紙には、リクの勝利と、サジョウが会場を去ったことが簡潔に記されていた。しかし末尾に、気になる一行がある。
「サジョウは言いました。“次は私の本当の狙いを果たす。残香の力を最大限に使い、大会の決勝であなたたちの師の名に挑む”と。目的は不明ですが、警戒を続けます」
「師の名に挑む——か」
俺は手紙を置き、西の空を見つめた。
「俺を挑発しているのか、それとも——」
「どうする」
リリアが尋ねる。
「何もしない。弟子たちは自分の力で勝った。次も同じだ」
「でも——」
「大丈夫だ。あいつらには、味の芯がある」
カウンターの隅に置かれた小さな扇子が、かすかに風に揺れている。弟子たちの戦いは、まだ続く。
(第88話 終)
▼ 次回予告(第89話用の引き)
サジョウの狙いが明らかになる中、次戦はシノの番だった。彼は卵かけご飯にすべてを懸け、残香に立ち向かう。しかしサジョウの香炉からは、これまでより濃密な煙が立ち上り——。
(次話:「シノの卵かけご飯」)




