第83話「アリシアの決断」
弟子たちの特訓が始まって三日目の朝、王宮からの使いが屋台に現れた。白銀の髪をきっちりと結い上げたマルグリット侍従長が、いつになく改まった面持ちで立っている。
「王女様——アリシア様に、お召しでございます」
アリシアは解毒スープの鍋をかき混ぜる手を止め、静かにうなずいた。
「わかりました」
広場の空気がかすかに震える。シノとリクが心配そうに顔を見合わせ、リリアが茶碗を置いた。俺は炭火をかき立てながら、アリシアの背中を見送った。
王宮の小広間は、かつてアリシアが几帳の向こうに隠れていた頃と何も変わっていなかった。白い壁、控えめな装飾、窓から差し込む朝の光。ただ一つ違うのは——几帳がないことだ。
「アリシア様。王位継承に関する最終の決断を、本日はお伺いしたく」
老宰相が深く一礼する。その後ろには数人の重臣たちが控え、緊張した面持ちでアリシアを見つめていた。
「本来ならば、王女様が王位を継がれるのが最も自然な形。しかし——ご存じの通り、遠血の公家にも継承権が移る可能性がございます。彼らは王国の安定のために、早期の決断を求めております」
アリシアは静かに目を閉じた。王女としての責務。十年間、毒に苦しみ、味覚を失い、誰にも会えずに生きてきた日々。そして——屋台で過ごした、この数ヶ月の温かな時間。両方が彼女の中で渦を巻いている。
「私は——」
彼女は目を開け、まっすぐに老宰相を見つめた。
「料理人として生きていきたいと思っております。しかし、それと同じくらい——この国を想っております。私が王位を継げば、遠血の公家との争いを避け、王国は安定する。それはわかっております」
「では」
「ですが——私はもう、几帳の向こうに隠れるだけの王女ではありません。市場の屋台で、多くの者たちと触れ合い、料理を作り、その喜びを知りました。この国の民は——私の顔ではなく、私の料理を待ってくれている」
老宰相はしばらく沈黙し、それから深くうなずいた。
「王女様がそこまでお考えならば——一つの提案がございます」
「なんでしょう」
「王女様が王位を継ぎつつ、公務の合間に料理を作ることを認めてはどうかと。前例はありませんが——前例を作ればよいのです」
「公務と、料理を」
「はい。王女として国を治めながら、料理人として民と交わる。どちらか一方を選ぶ必要はないのでは」
アリシアの目に、涙が浮かんだ。
「……そんなことが、許されるのでしょうか」
「許すも何も——もうすでに、民はあなたを“台所の王女”と呼んで慕っております。それを今さら覆すほうが難しい」
広間の空気が和らぎ、重臣たちの顔にも安堵の色が広がる。アリシアは涙をぬぐい、深く一礼した。
「ありがとうございます。では——私は王位を継ぎます。そして、料理人としても生き続けます」
「よろしき決断かと」
夕方、屋台に戻ったアリシアは、普段通りの落ち着いた様子で厨房に立った。しかしその目は心なしか輝いている。
「師匠——私、王位を継ぐことになりました」
「そうか」
「でも、料理も続けます。どちらか一方ではない——両方を選ぶことにしました」
「いい決断だ」
「師匠のおかげです。“どちらを選んでも間違いじゃない”と言ってくれたから——私は両方を選べた」
「俺は何もしてない。決めたのはお前だ」
アリシアは微笑み、解毒スープの鍋に手を伸ばした。
「では——特訓の続きを。大会まで時間がありません」
「ああ。やるぞ」
リリアが茶をすすりながら、アリシアの背中を見つめていた。その目は、少しだけ優しかった。
(第83話 終)
▼ 次回予告(第84話用の引き)
アリシアの決断から数日、西方の古都へ旅立つ弟子たちを見送る日が来た。シノ、アリシア、リク——三人はそれぞれの思いを胸に、大陸料理大会への第一歩を踏み出す。屋台に残るカズマは、いつも通り焼きおにぎりを握りながら、彼らの門出を静かに祝福する。
(次話:「弟子たちの旅立ち」)




