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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第74話「山間の祠」


海の祠を癒した一行は、リクの故郷である東の漁村でしばしの休息をとっていた。村人たちの味覚は少しずつ戻り始め、浜辺には再び魚を干す煙が立ち上っている。リクは村の復興を手伝いながら、母の形見の鍋で毎日味噌汁を作り、村人たちに振る舞っていた。


「カズマさん、これ、味見してください」

リクが差し出した椀を受け取り、一口すする。出汁の取り方が安定し、塩加減も程よい。東方のアオサが潮の香りを引き立て、干し魚の旨味が溶け込んでいる。

「悪くない。あとは火加減だけだ。強火で煮立たせすぎるな」

「はい!」


そこへ、村長が慌ただしく駆けつけてきた。その後ろには見慣れぬ山岳地方の民族衣装を着た男が一人、疲れ切った顔で従っている。男は膝に泥をつけ、肩で息をしながら言った。

「助けてほしい。俺の村でも——“味喰い”が出た」


広場の空気が凍りついた。リクが顔を上げ、リリアが弓を握り直す。

「どこだ」

「ここからさらに東へ、山を三日ほど越えた場所だ。山間の小さな村で、俺たちは山菜と川魚で暮らしてきた。でも二週間ほど前から——村の者が次々に味を失い始めた。それだけじゃない。味を失った者は、みな妙に“甘いもの”を欲しがるようになる。そして甘いものを食べると——今度は苦いものしか感じられなくなる」

「甘いものへの渇望、それから苦味だけの世界か」

「ああ。誰もまともに食事ができず、村はもう限界だ。頼む、助けてほしい」


俺は立ち上がった。

「案内しろ。山の祠へ」

「祠があるのは知っている。だが——祠の精霊はもう何年も姿を見せていない。何かに怯えているようにも見えた」

「その精霊を目覚めさせる。料理でな」


山道は険しく、深い霧が谷間を埋め尽くしていた。空気は冷たく、木々の葉は色あせ、川の水は濁っている。山全体が味を失い、沈黙しているかのようだった。やがて山間の村に到着すると、村人たちは青ざめた顔で一行を出迎えた。誰もが痩せ細り、唇は荒れ、目は虚ろだ。村の広場には小さな祠があり、その奥に——精霊が震えていた。


山の精霊は年若い少年の姿をしていた。肌は苔のように青白く、目は閉じられ、両手で耳を塞いでいる。祠の壁には山菜や川魚の浮き彫りが刻まれているが、どれも崩れ落ちかけていた。


「山の精霊だ」エルムが杖を掲げて言った。「この祠は九つの祠とは別の、山の恵みを守る古い祠。精霊は長い間、何かに怯えているようだ」

「精霊、話せるか」

精霊がゆっくりと目を開けた。その瞳は恐怖に揺れている。

「……山に——“甘い霧”が出る。霧が来ると、みんな味を失う。私はそれを防げなかった。それどころか——」

「何があった」

「私は——“苦い味”を封じてきた。山には昔、毒草が多くて、村人たちが間違えて食べないように、私が苦味を引き受けてきた。でも——甘い霧が来てから、苦味が抑えきれなくなった。甘い霧が苦味を呼び覚ます。私はもう——」

少年の手が震え、かすかな苦味の香りが祠に漂う。


「甘い霧が苦味を暴走させているのか」

俺は祠を出て、村の周囲を見渡した。確かに山腹に甘い腐臭が漂い、霧が谷間から這い上がってくる。その霧に触れた山菜は甘く変色し、川魚は苦味を帯びて死んでいた。

「甘味と苦味のバランスが崩れている。なら——その二つを調和させる料理が必要だ」


俺は祠の前に簡易竈を据え、村でかろうじて採れた山菜と、リクが持ってきた東方の香辛料、無味砂漠の岩塩を並べた。山菜にはまだかすかに苦味が残っている。その苦味を消さずに、甘味で包み込む——いや、甘味と苦味を共存させる一皿を作る。


山菜をさっと湯がいて苦味を和らげ、刻んだ香草と岩塩で風味を足す。そこに東方のアオサを粉末にしたものを加え、潮の香りで全体を引き締める。そして最後に——わずかな蜂蜜を垂らした。蜜の祠の精霊から分けてもらった、西方の蜂蜜だ。甘味と苦味が混ざり合い、湯気と共に立ち上る香りが祠の空気を変えていく。


「“調和の山菜和え”だ。苦味を消さずに、甘味で包み込む。どちらか一方ではない。両方があって、初めて味は深まる」


器を精霊の前に差し出すと、精霊は震える手で一口口に運んだ。

「……苦くて、甘い。でも——嫌な苦さじゃない。甘さが苦さを引き立ててる。これは——」

「お前がずっと引き受けてきた苦味を、甘味が支える。一人で抱え込むな。甘さも苦さも、料理の中でなら共存できる」


精霊の目から涙がこぼれ、その体がかすかに光を放ち始めた。祠の壁のひび割れが塞がり、山腹の甘い霧が少しずつ晴れていく。川の水に澄みが戻り、山菜の葉が青さを取り戻し始めた。


「——祠が、癒えた」

エルムが杖で祠の壁に触れ、深く息を吐く。村人たちがおずおずと山菜を口にし、「苦くない——いや、ちゃんと苦いけど、うまい」と涙を流す声が広場に広がった。


リクが祠の前に立ち、自分の鍋で作った味噌汁を精霊に差し出した。

「これ——俺の村の味です。よかったら」

精霊は一口すすり、微笑んだ。

「……潮の香りがする。遠くの海の味だ」

「はい。母さんの味です」

「ありがとう。もう少しだけ——頑張れる」


精霊は深くうなずき、再び静かな眠りについた。今度は怯えではなく、回復のための穏やかな眠りだ。山に再び風が吹き、霧は消え、川のせせらぎが聞こえ始める。


「これで山の祠も癒えたか」リリアが弓を下ろして言った。

「ああ。しかし——“甘い霧”の正体はまだわからない。海の祠でも甘い匂いがあった。何かが、世界中の味を狂わせようとしている可能性がある」

「また長い旅になりそうだな」

「ああ。でも——やることは変わらない。祠を訪ね、料理を作り、味を戻す」

「それで世界の味が戻るなら、安いもんだ」


トシが扇子を広げて言った。

「甘味と苦味の調和か。料理の基本だな。兄貴、俺たちも昔、そんな話をしたな」

「ああ。甘味だけでは飽きられ、苦味だけでは嫌われる。両方があってこそ、味は深まる。この旅で、カズマはそれを改めて教えてくれているようだ」


一行は村人たちに見送られながら、次の目的地への相談を始める。エルムが地図を広げ、各地の祠の状態を確認していた。

「まだ癒えていない祠がいくつかある。甘い霧の影響は山間部に多い。次は——」

「まずは王都に戻り、情報を整理するぞ。それから次の祠へ向かう」

「了解」「はい!」


山の祠を後にし、一行は西へと歩みを進める。甘い霧の正体はまだつかめていないが——一歩ずつ、世界の味を取り戻す旅は続いていく。


(第74話 終)


▼ 次回予告(第75話用の引き)


王都への帰路、カズマたちは奇妙な町に立ち寄る。その町では——味覚を失った者たちが、なぜか“甘い料理”だけを求めて行列を作っていた。

「甘さだけが唯一の味。他の味はすべて消えた」

町の広場に立つ古びた祠——そこに潜むものは何か。

(次話:「甘味の祠」)

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