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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第73話「海の祠」


東の漁村に到着した一行を待っていたのは、異様な静けさだった。


潮風は吹いているのに、磯の香りがまったくしない。波の音だけが虚ろに響き、浜辺には打ち上げられた魚がいくつも転がっているが、どれもついばむ鳥すらいない。村人たちは家々にこもり、窓から外を覗く目はみな生気を失っていた。


「村長さんが戻った!」

一人の老婆が叫び、村人たちが次々に家から出てくる。しかしその誰もが痩せ細り、唇は乾き、目は落ち窪んでいる。味を失ってから、まともに食事ができていないのだ。


「リク……リクなのか」

若い漁師がふらふらと近づいてきた。

「お前、無事だったんだな」

「兄ちゃん!味が——味がわからなくなったって」

「ああ。三日前、夜に浜へ出たんだ。妙に甘い匂いがして——気がついたら朝だった。それから何を食っても砂の味しかしない」

「他のみんなも」

「ああ。村の半分以上がやられた。このままだと——」


リクは唇を噛みしめ、母の形見の鍋を握りしめた。


「カズマさん——俺の村を、助けてください」

「ああ。そのために来た。案内しろ、海の祠へ」


村の外れ、崖の上に古い石造りの祠が立っていた。壁には波と魚の浮き彫りが刻まれているが、潮風に削られてずいぶん崩れかけている。祠の奥には——小さな精霊がうずくまっていた。年の頃は十歳ほどの少女の姿で、髪は濡れた海藻のように濡れ、肌は青白く透き通っている。その手には小さな貝殻が握られていた。


「海の祠の精霊だ」

エルムが杖を掲げて言った。

「この祠は九つの祠とは別の、もっと古い祠だ。海の味を守る精霊は、潮の満ち引きと共に生きてきた」

「精霊、話せるか」

精霊がゆっくりと顔を上げた。その目は潮の満ち干のように揺れている。

「……海から、甘い匂いが来る。あれに触れると、味が消える。私は——あれが怖い」

「甘い匂いの正体は」

「わからない。でも——あれは“味を呼んでいる”。味を集めて、どこかへ持ち去ろうとしている。私はここで、ずっとそれを防いできた。でも——もう、力が」

貝殻を握る手が震え、かすかな光が消え入りそうになる。


「十分だ。あとは俺たちが何とかする」


俺は祠を出て、浜辺に立った。潮風は相変わらず無臭だ。村長の言う通り、夜になれば甘い匂いが漂ってくるのだろう。まだ日は高いが——よく見ると、沖合の水面が不自然に波立ち、かすかに粘つくような光を放っている。


「あれが発生源か」

「おそらくな」ギリアムが大剣を構える。「夜を待つか」

「いや——待たずに料理を作る。甘い匂いが味を誘き寄せるなら、それより強い味で引き寄せ返す」


俺は浜辺に簡易竈を据え、火を起こし始めた。リクが持ってきた東方の乾物——干し魚、アオサ、それから海藻の乾物。無味砂漠の岩塩。それから、祠の精霊が握っていたのと同じ貝殻を浜辺で拾い集め、すり潰して加える。貝殻の粉末は微量の海のミネラルを含み、甘い匂いに対抗する“潮の香り”を引き出すはずだ。


「“潮の呼び戻し汁”だ。甘い匂いに誘われた味覚を、潮の香りで呼び戻す。海の味は甘さだけじゃない。塩味、うま味、苦味——そのすべてを込めた」


鍋から立ち上る湯気に、潮の香ばしい匂いが混ざり始めた。それは無味だった浜辺の空気を押しのけ、村人たちの鼻をかすかに震わせる。


「匂いがする——」

老婆が呟く。

「潮の匂いだ。久しぶりだ、本物の潮の匂い——」


その時だった。沖合の水面が割れ、黒い霧が立ち上った。霧は甘い腐臭をまとい、波を這うように浜辺へと迫ってくる。


「来たぞ!」

リリアが矢をつがえ、ギリアムとゴルドア、マクシミリアンが前に出る。霧は彼らの間をすり抜け、鍋に向かって一直線に進んだ。味を狙っているのだ。


「食わせたいなら——食え」


俺は鍋を霧の前に差し出した。霧は一瞬ためらい、それから鍋の湯気に包まれた瞬間——その動きが止まった。


黒い霧の中で、何かが悶えるように震えている。甘い腐臭が薄れ、代わりに潮の香ばしさが浜辺中に広がった。霧はゆっくりと縮み、やがて——一匹の小さな海蛇の姿になった。鱗は黒く濁り、目は黄色く光っている。飢えていたのだ。味を求め、味を奪い、それでも満たされずにいた。


「海蛇——海の味喰いの正体はこれか」

「飢えていただけだ。お前もまた、味を知らなかったんだな」


海蛇は潮の呼び戻し汁を一口舐め、その濁った鱗がかすかに青みを取り戻し始めた。そして——静かに波の中へと帰っていく。沖合の不自然な波も収まり、浜辺に再び潮風が戻ってきた。本物の磯の香りを運んで。


「——祠が、癒えた」

エルムが崖の上の祠を見上げて言った。精霊の光が少しだけ強まり、貝殻がほのかに輝いている。

「これで海の味は守られる。時間はかかるが——村の味覚も戻るだろう」


リクが浜辺に膝をつき、涙をこぼしていた。

「母さんの村が——助かった」

「ああ。お前の持ってきた東方の食材のおかげだ。誇っていい」

「カズマさん——ありがとうございます。俺、もっと料理を勉強して、この村にまた味を戻します」

「その意気だ」


村長が深く頭を下げ、村人たちが次々に集まってきた。老婆が潮風を吸い込み、若い漁師が貝殻を拾い上げ、子供たちが波打ち際で歓声を上げている。まだ味覚が戻らない者も多いが——それでも、希望が戻った。


(第73話 終)


▼ 次回予告(第74話用の引き)


海の祠が癒え、村に平穏が戻った矢先、カズマのもとに新たな報せが届く。

「東方のさらに奥——山間の村で、また“味喰い”が現れたらしい」

しかし、その味喰いはこれまでとは何かが違うという。

(次話:「山間の祠」)



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