第72話「東の漁村」
リクが弟子入りして三日、屋台は新しい風に包まれていた。
東方の乾物や海藻、見慣れぬ香辛料を使った料理が少しずつメニューに加わり始め、常連客たちは物珍しさに喜んで舌鼓を打っている。リク自身はまだ包丁を持つ手が震え、野菜の刻みも不揃いだが、それでも彼の持ってきた食材は確かな可能性を秘めていた。
「この海藻、味噌汁に入れると潮の香りが立つな」
グレゴールが鍋をかき混ぜながら言う。
「はい、村では“アオサ”って呼んでます。干して保存して、冬の間の貴重な味の素でした」
「面白い。干し方によって香りが変わる。もっと研究したい」
エレナも無言で海藻をより分け、毒見役時代の知識で安全性を確認している。東方の食材は、この屋台にとって新しい宝の山だった。
「カズマさん!この乾物の魚、焼いたらすごく香ばしいです!」
シノが鉄網の上で小さな干し魚を炙りながら叫ぶ。
「ああ。頭と骨を取って、ほぐして飯に混ぜ込め。東方のふりかけだ」
「はい!」
アリシアはリクから教わった東方の香草を、自分の解毒スープに応用しようと試行錯誤している。弟子三人がそれぞれの持ち場で切磋琢磨する光景は、屋台に新しい活気をもたらしていた。
「いい感じだな」
リリアが茶をすすりながら言う。
「ああ。弟子同士で教え合うのはいい。俺一人では教えきれないことを、互いに補い合っている」
「あんた、だんだん師匠らしくなってきたな」
「まだまだだ」
その時、広場の入口から慌ただしい足音が近づいてきた。見ると、ランドルが汗を拭いながら走ってくる。その後ろには、見慣れぬ東方の旅装束を着た男が一人、青ざめた顔で従っていた。
「カズマ殿!急ぎの報せだ!」
ランドルが息を切らせて叫ぶ。
「どうした」
「東方から来た使者だ。リクの故郷の村で——」
東方の男が一歩前に出た。年の頃は四十前後、漁師らしい日焼けした顔に、深い疲労の色が浮かんでいる。服は旅の汚れにまみれ、手にはボロボロの笠が握られていた。
「リク——いるか」
男の声に、リクが顔を上げた。包丁を握ったまま、目を見開く。
「……村長さん」
「無事だったか。よかった」
「どうしてここに」
「お前を追ってきた。そして——助けを求めに」
村長は深く息を吸い、震える声で告げた。
「村に——“味喰い”が出た。三日前からだ。漁から戻った者が次々に味覚を失い、今では村人の半数が何も感じられなくなっている」
「味喰い——」
「ああ。しかも今度のは、山で出会った霧の化け物とは違う。“海から来る”んだ。夜になると、浜辺に黒い霧が立ち込めて、その霧に触れた者から味覚が消える。漁ができず、村はもう——」
リクの顔から血の気が引いた。
「母さんが守った村が——」
「リク」
俺は立ち上がった。
「行くぞ。お前の村へ」
「でも、俺、まだ弟子になったばかりで——」
「弟子だからこそだ。自分の故郷を守れなくて、誰かのために料理を作れるか」
「……はい!」
シノとアリシアも同時に立ち上がった。
「師匠、俺も行きます!」
「私も。解毒スープの応用が役に立つかもしれません」
「よし。二人とも同行だ」
リリアは弓を背負い直し、ギリアムは大剣を担ぎ、ゴルドアとマクシミリアンは無言で立ち上がった。将軍は少し考えてから言った。
「私は残ろう。王都の屋台を守る。東方の海の幸を使った粥を研究しておく」
「助かる」
ヴァルケンと戦士たちもまた、屋台の留守を守るとうなずいた。グレゴールとエレナは東方の食材についてリクから教わったことを整理し、屋台の新メニュー開発を続けながら、いつでも援護に行ける準備を整え始める。
「村長、道案内を頼む」
「ありがたい。しかし——気をつけてくれ。今回の“味喰い”は、これまでと違う。ただ味を奪うだけじゃない——“味を呼ぶ”んだ」
「味を呼ぶ」
「ああ。夜中に浜辺に立つと、妙に甘い匂いが漂ってくる。嗅いだ者は無性に何かを食べたくなる。そして食べた者から——味が消える」
「……何かが、味を誘き寄せているのか」
「わからん。ただ——祠の精霊も、何かにおびえているようだった」
俺は背負った包みを確かめた。中には無味砂漠の岩塩、東方の乾物、香辛料、そして旅で培ったすべての味の記憶。海の味喰い——水の味を奪う何かが相手なら、火の味で応じるべきか。まだわからない。だが、行けば見えてくるはずだ。
「よし、出発だ。海の味を取り戻すぞ」
「了解!」
「はい!」
リクが母の形見の鍋を胸に抱き、深くうなずいた。村長が先導し、一行は東の漁村へ向けて歩き始める。背後では、屋台の灯りが朝日の中で静かに揺れていた。
(第72話 終)
▼ 次回予告(第73話用の引き)
東の漁村に到着したカズマたちを待っていたのは、異様な静けさに包まれた浜辺と、祠の前で震える精霊だった。
「海から——甘い匂いが来る。あれに触れると、味が消える」
海の祠の精霊が消え入りそうな声で警告する中、カズマは浜辺に立ち、潮風に混ざる異様な甘さの正体を探る。
(次話:「海の祠」)




